由利敬裁判
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由利敬裁判(ゆりけいさいばん)は、1945年12月から翌年1月にかけてアメリカ軍横浜裁判で審理された、由利敬・元中尉を被告人とするBC級戦犯裁判。1943年8月-1944年7月の大牟田俘虜収容所の分所長時代の、捕虜殺害等の罪に問われた。判決は絞首刑で、1946年4月26日に刑が執行され、巣鴨プリズンで初めての死刑執行事件として注目された。[1]
- ^ この記事の主な出典は、林 (2005, p. 57)、岩川 (1995, pp. 46–68)、東京裁判ハンドブック (1989, p. 110)および上坂 (1981, pp. 17–57)。
- ^ 上坂 1981, p. 21.
- ^ 福岡俘虜収容所には18の分所があり、敗戦時に10,417人の俘虜を収容していた(東京裁判ハンドブック 1989, p. 110。俘虜情報局『俘虜情報局ノ業務二就テ』からの引用として)。
- ^ a b c d 林 2005, p. 57.
- ^ a b c d e f 東京裁判ハンドブック 1989, p. 110.
- ^ 上坂 1981, p. 22.
- ^ a b c 上坂 1981, p. 33.
- ^ a b c d e f 上坂 1981, p. 34.
- ^ 岩川 (1995, p. 65)では、「米軍俘虜G・バブロス伍長を飢餓により死亡するに至らしめ」たこと。
- ^ 岩川 (1995, p. 65)では、「(収容所からの)逃亡を企てた米軍俘虜ジェームス・C・ハールド上等兵を部下に命じて刺突・殺害せしめ」たこと。
- ^ 上記の軍医の証言では、赤十字から支給された医薬品は1,750人の捕虜に対して509人分しか与えられず、捕虜の受ける手術が手袋なしで行なわれ、医療器具も不足していたうえに、戦後の調査で赤十字から支給された医薬品が隠匿されていたことが判明した、とされていた(上坂 1981, pp. 34–35)
- ^ 岩川 1995, p. 65.
- ^ 東京裁判ハンドブック (1989, p. 110)では、在任中に、同収容所に収容していた約1,700人の連合軍俘虜のうち、米国人俘虜1人を殺害し、1人を餓死させた責任を問われた、としている。
- ^ 上坂 1981, pp. 35–36.
- ^ 上坂 1981, pp. 36–38.
- ^ 分所長を集めて、東部軍司令部・上村利道中将が同席して開かれた(上坂 1981, pp. 39–40)
- ^ 同規則第6条には、俘虜が不従順な場合に監禁等の手段をとることができ、逃亡しようとした場合には兵に命じて殺害してよい旨の規程がある(上坂 1981, pp. 39–40)
- ^ 上坂 (1981, pp. 39–40)。菅沢は、後に自身が被告人となった戦犯裁判で、上村から由利の主張と同趣旨の判示があり、脱走捕虜を捕えて殺害した場合には報告書を提出するように指示を受けたと証言している(同)。
- ^ 上坂 1981, pp. 40–46.
- ^ 上坂 1981, pp. 41–42.
- ^ 上坂 (1981, pp. 45–46)。福岡俘虜収容所(本所)が裁判に提出した資料の中では、ヒアド伍長殺害は正当防衛だったと主張されており、由利の証言はこの資料による主張を否定することになった(同)。
- ^ 上坂 1981, p. 47.
- ^ 上坂 1981, pp. 48–49.
- ^ 上坂 1981, pp. 49–50.
- ^ 上坂 1981, pp. 50–51.
- ^ 上坂 1981, pp. 33, 52.
- ^ 上坂 1981, p. 31.
- ^ 岩川 1995, p. 66.
- ^ 上坂 (1981, p. 33)。弁護士に内定した児玉正五郎弁護士が本人に電話連絡したが、米国人弁護士だけで充分だと回答した(同)。
- ^ 上坂 1981, pp. 59–73.
- ^ 東京裁判ハンドブック (1989, p. 110)。福原のほかに死刑となったのは牟田松吉、武田定軍属(同)。
- ^ 「四名に絞首刑」『朝日新聞』昭和22年9月10日.2面
- 1 由利敬裁判とは
- 2 由利敬裁判の概要
- 3 参考文献
- 由利敬裁判のページへのリンク