松山港
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松山港(まつやまこう)は、愛媛県松山市にある港湾。港湾管理者は愛媛県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。万葉集に歌われた「熟田津」(にぎたつ)は松山港のうちの古三津に当たるとも考えられており、古くから瀬戸内海交通の重要拠点とされてきた。松山観光港、高浜港、三津浜港、堀江港、松山外港、今出港を含む。それぞれの港についても当項で記載する。
注釈
出典
- ^ 第24期事業報告
- ^ 読売新聞、2000年10月21日
- ^ “会社概要 >>松山観光港ターミナル”. www.kankoko.com. 2023年2月22日閲覧。
- ^ “まつやま・ほりえ海の駅「うみてらす」”. www.city.matsuyama.ehime.jp. 2023年2月22日閲覧。
- ^ “松山観光港リムジンバス”. 伊予鉄グループ. 2024年3月26日閲覧。
高浜港
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高浜港(たかはまこう)は、明治20年代に開かれた港である。 もともと松山港は、三津浜地区が藩政期からの港であったが、高浜が興居島を前面にした天然の良港であることから、1892年(明治25年)に伊予鉄道が高浜へ鉄道を伸ばした。ところが満足な港湾設備がなかったことから、さしたる利用はなく、1902年に宇品航路が開設された際も、三津浜港(後述)を寄港地としていた。伊予鉄道では同航路を誘致しようと、高浜港に桟橋を建設し同航路の寄港地を高浜へ変更させることに成功したが、もともと高浜への鉄道延伸自体を快く思っていなかった三津浜町(松山市への合併前)の反発を買った。 その後、1906年に兵員輸送の必要性から軍の要請によって待合所・倉庫等の港湾施設が整備されるなど高浜港の充実に古くからの港町であった三津浜町は激しく反発。当時の伊予鉄道社長・井上要は進歩党の代議士でもあったことから、政友会と進歩党との政界を巻き込んだ激しい争いとなり、三津浜派は1907年に伊予鉄道に対抗する形で松山電気軌道という新しい鉄道会社を設立。1911年の開業後、激しい客引き合戦を行った。松山電気軌道は運営に苦しみ、鉄道院の勧告もあって1921年(大正10年)に伊予鉄道が吸収合併している。 その後、瀬戸内海においてカーフェリーが普及してきたが、高浜港は中型以上のカーフェリーに対応できにくい桟橋の構造であり、柳井港との航路を有する三津浜港とは機能をすみわける形で共存してきた。さらに手狭になったこともあって、関西、九州、広島方面などほとんどの航路は北の松山観光港へ移り、現在、高浜港を利用するのは忽那諸島や興居島への旅客船・カーフェリーのみとなっている。 伊予鉄道高浜線の高浜駅が、道を隔てたすぐ近くにある。フェリー乗降口の隣に駐車場(有料)があり、切符売り場兼待合所の建物も隣接している。 中島汽船(中島方面) ごごしま(興居島方面)
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