横須賀鎮守府第三特別陸戦隊
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「日本海軍空挺部隊」の記事における「横須賀鎮守府第三特別陸戦隊」の解説
横須賀第三特別陸戦隊は、1941年11月20日に、横一特の半数を分割して編成された。こちらも同名の部隊が支那事変中に活動していたが、新規に作られた部隊で繋がりは無い。司令には福見幸一少佐が着任した。定員は横一特と同じく849名(落下傘兵750名)で、編制も同じである。 太平洋戦争が始まると、1942年2月のティモール島攻略に際してクーパン降下作戦を行ったが、苦戦した。700名が2月20日と21日の2波に分かれてクーパン付近の牧場にパラシュート降下したが、クーパン飛行場へ進撃中に装甲戦闘車両を含むオーストラリア陸軍部隊と遭遇してしまった。連合国軍の東ティモールへの退路を遮断する位置だったため激しい攻撃を受け、ようやく飛行場に到達したときには海岸から上陸した陸軍部隊が占領した後であった。横三特の損害は小さくなく、戦死35名、負傷者多数であった。ティモール島占領後は、アンボン方面の掃討戦に従事した。 次期作戦に備えてアンボンで待機していた横三特は、1942年8月のガダルカナル島の戦い開始により、外南洋部隊に編入されてラバウルへの進出を命じられた。空挺機材を携行して輸送船「第二東亜丸」で出航した。ところが、マキン奇襲事件の発生からマーシャル方面の防備への転用が決まり、内南洋部隊に編入されてチューク島への上陸を命じられた。経由地チューク島に第三中隊を残すと、主力はミレ島の防備に赴いた。その後、同年11月に上海海軍特別陸戦隊の2個中隊を中心に編成された第六二警備隊ミレ派遣隊が到着したため、交代して日本本土へ引き上げた。 1943年3月に横一特と統合され、解隊された。
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