当初の建設
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短絡線はサザン・パシフィック鉄道によって1902年2月から1904年3月にかけて建設された。1869年にゴールデン・スパイクが打ち込まれたプロモントリー・サミット(英語版)を通る当初のセントラル・パシフィック鉄道のルートを置き換えた。オグデンから湖を横断して西へルーシンへ結ぶことで、当初のルートから44マイル(約71キロメートル)を短絡し、また曲線と勾配も大きく緩和することができた。サザン・パシフィック鉄道の主任技術者ウィリアム・フードの指揮下にサザン・パシフィック鉄道の労働者3,000人が休みなく働いてこの線を建設した。 路線の開通時、短絡線は湖の西岸からプロモントリー・ポイントを結ぶほぼ12マイル(約19キロメートル)におよぶ木造のトレッスル橋と、ベア・リバー・ベイを渡って湖の東岸からプロモントリー・ポイントを結ぶ土手道から構成されていた。この区間にはベア川(英語版)の水が湖に流れ込むことができるように600フィート(約180メートル)のトレッスル橋があった。 1908年までに、東西双方向にそれぞれ1日5本の旅客列車と7本の貨物列車が運行するようになった。1942年にはルーシンとカリン(英語版)の区間の当初のルートは戦争のために金属資源を提供して撤去され、プロモントリーで最後の犬釘の引き抜きが行われた。 1944年末に、短絡線において48人が死亡するベーグリー鉄道事故が発生した。西行きの貨物列車がゆっくり走っていた旅客列車の末尾に濃霧の中で追突した。
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当初の建設
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「富士川橋梁 (東海道本線)」の記事における「当初の建設」の解説
最終的に富士川橋梁が建設されることになった地点には、幕末期に建設された帰郷堤という堤防が存在していた。急流の富士川は台風の時期によく氾濫を起こし、その被害により土地を離れざるを得なかった農民たちが、この堤防の完成により帰郷できたというところから、帰郷堤の名がある。富士川橋梁建設に伴い、この帰郷堤の大部分を取り壊すことになったことから、富士川左岸の松岡村の住民たちは県知事に帰郷堤取除き停止を嘆願して反対運動に乗り出し、大きな社会問題に発展した。鉄道局による富士川橋梁建設工事と連帯して、1887年(明治20年)6月9日から内務省による河川改修工事が開始され、これにより帰郷堤は改築され、新たな堤防が建設されることになった。その利点を説明することにより、住民の不安解消に努めた。 富士川橋梁の建設を担当したのは、小川勝五郎であった。小川は鳶職人の親方をしていた人物で、多くの人夫たちからも兄として慕われていた。新橋 - 横浜間の鉄道建設に当たって六郷川橋梁の建設を任され、お雇い外国人の指導の下に見事に完成させた。さらに関西において十三川橋梁や神崎川橋梁などの架設を実施して、「鉄橋小川」「鉄橋の勝五郎」などと称されるようになった。こうした功績により、小川は鳶職人出身ながら正式に鉄道局雇として役人の地位に就けられた。小川は東海道本線においては、富士川橋梁と大井川橋梁を同時に請け負って監督を行っていたが、大井川橋梁には代理を送り、本人はほぼ富士川橋梁につきっきりで工事に当たったという。 富士川は流量の多い河川であるとして、橋脚には特別な設計が行われ、長径35フィート6インチ(約10.82メートル)、短径18フィート(約5.49メートル)の楕円形断面を有する、同時期の東海道本線の他の橋梁に比べて1.2倍から1.5倍に達する規模の巨大な橋脚が建設された。井筒工法(オープンケーソン)により煉瓦を主要な部材とする橋脚が建設され、この時に建設された橋脚は、後に水害を受けて撤去された第4橋脚と第8橋脚を除く6基がそのまま使用され続けている。 上部構造には、当時標準設計とされていた支間208フィート(約63.4メートル)のイギリス製単線下路ダブルワーレントラス桁9連が用いられた。中山道幹線建設に当たって、揖斐川橋梁、長良川橋梁、木曽川橋梁に当時最大となる200フィートクラスの桁を架設することになり、お雇い外国人のチャールズ・ポーナルがこの標準桁を設計してイギリスのメーカーに製作させた。この時点ではすべて錬鉄製の設計であったが、1886年(明治19年)の東海道への経路変更に際しては、基本的な構造をそのままにしながらも、上下弦材や端柱に鋼鉄を採用して軽量化した錬鉄・鋼鉄混合桁が採用され、トラス1連あたりの重量が約200トンから約157トンとなった。富士川橋梁ではこちらの新しい錬鉄・鋼鉄混合桁が採用された。この200フィート標準桁は、錬鉄製のものが22連、錬鉄・鋼鉄混合桁のものが90連の合計112連が製作・架設され、19世紀中の日本の各地の鉄道橋梁で用いられた。 富士川橋梁は1888年(明治21年)1月に着工し、9月に完成したとされるが、当時の記録からこの工期は上部構造に限られたものであり、これより前に下部構造の工事が行われていた可能性が指摘されている。完成した富士川橋梁は全長1,874フィート(約571.2メートル)となった。富士川橋梁が存在する区間を含む国府津 - 静岡間は、1889年(明治22年)2月1日に開通した。同年7月1日に東海道本線が全線開通した。
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