軍務局一課長とは? わかりやすく解説

軍務局一課長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

井上成美」の記事における「軍務局一課長」の解説

1932年昭和7年10月1日軍令部出仕兼海軍省出仕軍務局第一課勤務海軍省軍務局長寺島健指名により、11月1日海軍省軍務局第一課長に補された。海軍省軍務局海軍軍政の要であり、井上補された一課長は、局の筆頭課長であった同日に妻の喜久代が肺結核死去した37歳没)。 井上は、五・一五事件における海軍青年士官中心とする首謀者たちが世論から英雄視されている風潮危機感覚えた井上はこの事件刺激され陸軍青年将校たちが「海軍先を越された」と考え、必ず事を起こす違いない予想していた。井上海軍省を「海軍兵力」で守る準備始めた海軍省構内にある東京海軍無線電信所が「官衙ではなく部隊」であり武装できること気づき小銃20挺を配備した所長が、井上同期武田哲であったのが幸いした。さらに「軍事普及並びに宣伝用」という名目戦車一台海軍省内に常駐させた。 1933年昭和8年3月軍令部権限強化する軍令部条例並に省部事務互渉規定改定案」を軍令部提起した際、試案通読した井上は、この件を自ら処理することとした。海軍省代表する井上対す軍令部側の代表は、軍令部第二課長の南雲忠一大佐であり、南雲井上何度も「殺すぞ」と脅迫した井上は、表書は「井上成美遺書 / 本人死亡せばクラス会幹事開封ありたし」、本文は「どこにも借金はなし。娘は高女高等女学校)だけは卒業させ、出来れば海軍士官に嫁がせしめたし」という遺書執務入れていた。改定案(決裁権限海軍大臣)は主務課長井上決裁しないため成立せず、8月に入ると軍令部自身改定最終案作り海軍大臣大角岑生大将突きつけ軍令部長伏見宮博恭王大角辞職ちらつかせた大角伏見宮圧力屈し海相以下の海軍省首脳部改定案に同意した9月16日朝、寺島井上軍務局長室に呼び井上改定案へ同意するよう言ったが井上拒否し、さらに「事態紛糾させた責任をとって辞職する」旨返答し軍服背広着替えて鎌倉の家に帰った海軍次官藤田尚徳中将使者がその晩に井上宅を訪問して翻意促したが、井上拒否した海軍大臣秘書官・矢牧章少佐は、週明け9月18日に、第二種軍装の胸に勲章を吊った井上海軍大臣室から出て来たため、井上大角進退伺い予備役編入願い出た解釈した。矢牧が入れ替わり大臣室に入ると、大角は「そうまで思いつめんでええと言うんだが、井上が諾(き)かんのだ。何遍言っても諾かんのだ。困ったな、困ったな」と赤い顔をして言ったという。軍令部条例と省部事務互渉規定大角決裁により改正され昭和天皇裁可する際に「一つ運用誤れば政府所管である予算人事に、軍令部過度に介入する懸念がある海軍大臣としてそれを回避する所信はどうか」と問うた。これは正に井上危惧し反対した所だった。

※この「軍務局一課長」の解説は、「井上成美」の解説の一部です。
「軍務局一課長」を含む「井上成美」の記事については、「井上成美」の概要を参照ください。

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