軍務局一課長
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1932年(昭和7年)10月1日、軍令部出仕兼海軍省出仕、軍務局第一課勤務。海軍省軍務局長・寺島健の指名により、11月1日に海軍省軍務局第一課長に補された。海軍省軍務局は海軍軍政の要であり、井上が補された一課長は、局の筆頭課長であった。同日に妻の喜久代が肺結核で死去した(37歳没)。 井上は、五・一五事件における海軍青年士官を中心とする首謀者たちが世論から英雄視されている風潮に危機感を覚えた。井上はこの事件に刺激された陸軍の青年将校たちが「海軍に先を越された」と考え、必ず事を起こすに違いないと予想していた。井上は海軍省を「海軍の兵力」で守る準備を始めた。海軍省の構内にある東京海軍無線電信所が「官衙」ではなく「部隊」であり武装できることに気づき、小銃20挺を配備した。所長が、井上と同期の武田哲郎であったのが幸いした。さらに「軍事普及並びに宣伝用」という名目で戦車一台を海軍省内に常駐させた。 1933年(昭和8年)3月、軍令部の権限を強化する「軍令部条例並に省部事務互渉規定改定案」を軍令部が提起した際、試案を通読した井上は、この件を自ら処理することとした。海軍省を代表する井上に対する軍令部側の代表は、軍令部第二課長の南雲忠一大佐であり、南雲は井上を何度も「殺すぞ」と脅迫した。井上は、表書は「井上成美遺書 / 本人死亡せばクラス会幹事開封ありたし」、本文は「どこにも借金はなし。娘は高女(高等女学校)だけは卒業させ、出来れば海軍士官に嫁がせしめたし」という遺書を執務机に入れていた。改定案(決裁権限者海軍大臣)は主務課長の井上が決裁しないため成立せず、8月に入ると軍令部は自身で改定最終案を作り、海軍大臣・大角岑生大将に突きつけ、軍令部長・伏見宮博恭王は大角に辞職をちらつかせた。大角は伏見宮の圧力に屈し、海相以下の海軍省首脳部が改定案に同意した。 9月16日朝、寺島が井上を軍務局長室に呼び、井上に改定案へ同意するよう言ったが井上は拒否し、さらに「事態を紛糾させた責任をとって辞職する」旨返答し、軍服を背広に着替えて鎌倉の家に帰った。海軍次官・藤田尚徳中将の使者がその晩に井上宅を訪問して翻意を促したが、井上は拒否した。海軍大臣秘書官・矢牧章少佐は、週明けの9月18日に、第二種軍装の胸に勲章を吊った井上が海軍大臣室から出て来たため、井上が大角に進退を伺い、予備役編入を願い出たと解釈した。矢牧が入れ替わりに大臣室に入ると、大角は「そうまで思いつめんでええと言うんだが、井上が諾(き)かんのだ。何遍言っても諾かんのだ。困ったな、困ったな」と赤い顔をして言ったという。軍令部条例と省部事務互渉規定が大角の決裁により改正され、昭和天皇は裁可する際に「一つ運用を誤れば、政府の所管である予算や人事に、軍令部が過度に介入する懸念がある。海軍大臣としてそれを回避する所信はどうか」と問うた。これは正に井上が危惧し、反対した所だった。
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