海軍軍人としての台頭とは? わかりやすく解説

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海軍軍人としての台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/09 05:43 UTC 版)

程璧光」の記事における「海軍軍人としての台頭」の解説

父はアメリカで商売営んでいたが、1871年同治10年)にサンフランシスコ死去したため、程璧光守って帰国した15歳のときに、馬江船政局水師学堂学び卒業後は海軍で順調に昇進している。1894年光緒20年)、程璧光は粤艦領隊に任じられ、広甲・広乙・広丙の3艦を率いて北上した日清戦争勃発すると、当初後備命じられたが、程は自ら李鴻章志願して最前線赴く許可得ている。しかし大東溝において、日本艦隊との戦闘中負傷してしまった。翌年2月威海衛において北洋艦隊覆滅され、清の敗北に終わると、程は官職解かれ帰郷している。 帰郷直後に、程璧光興中会組織していた孫文出会う孫文と、すでに入会していた弟の程奎光の勧誘受けて程璧光興中会加入した。しかし同年10月興中会蜂起失敗して、程奎光は殺害されてしまう。程璧光マレーシアペナン島へと逃亡したが、しばらくは革命派との関与を慎むようになる1896年光緒22年)春、李鴻章欧州へ向かう最中ペナン島立ち寄ったところ、程璧光対面し再任官を勧めてきたため、程もこれに応じた5月李鴻章英国建造中の海天海圻の2艦の統率程に委ね、程はこれを率いて帰国した帰国後は、北洋営務処会弁、船政司司長を歴任する1909年宣統元年)、巡洋艦統領に任ぜられた。翌年冬には、海軍第二司司長に任ぜられる。1911年宣統3年6月ジョージ5世戴冠式に際して正使の載振に副使として随従した。戴冠式終了後は、程は艦を率い南北アメリカ各国寄港してから帰国している。 辛亥革命勃発当時程璧光はまだ海外にあった伍廷芳革命派帰国要請もあったものの、実際帰国1912年民国元年)夏となってしまう。そのときには、すでに劉冠雄海軍総長地位にあったため、程はこの状況見て辞職し上海に引きこもってしまった。 袁世凱は程を放置しようとせず、翌年には海軍高等顧問として招聘した。さらに陸海軍大元帥統率弁事参議任じている。しかし1915年民国4年)に袁が皇帝即位目論んだ際には、程は表立って反抗こそしなかったものの、友人に不満の意を漏らす手紙を送るなどしている。

※この「海軍軍人としての台頭」の解説は、「程璧光」の解説の一部です。
「海軍軍人としての台頭」を含む「程璧光」の記事については、「程璧光」の概要を参照ください。

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