海軍観象台における観測
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 09:01 UTC 版)
「日本経緯度原点」の記事における「海軍観象台における観測」の解説
1872年(明治5年)11月、海軍水路寮は芝区飯倉に土地を購入、小規模な観測施設を設けた。これが海軍観象台の始まりとなる。観象台は以後土地と施設を拡充した。 1874年(明治7年)12月、金星の日面通過が約100年ぶりに発生した。この天体現象からは地球と太陽の間の距離(1天文単位)が測定できるため、欧米各国は世界各地に観測隊を派遣した。日本は観測の好適地の一つであり、フランス、アメリカ、メキシコが観測隊を派遣した。アメリカからの観測の申し入れを受けた水路局は、これに積極的に応えるとともに、技術習得に当たった。 ジョージ・ダビッドソン率いるアメリカ隊は、長崎市の星取山で金星の日面通過を観測した。長崎では電信法による経度測定が可能であり、アメリカ隊はウラジオストクと長崎の経度差を計測した。日面通過の観測後、日本側(柳楢悦大佐)の要請に応じ、アメリカ隊は隊員のチットマン(英語版)(合衆国沿岸測地測量局(英語版)局長)とエドワーズを派遣して、長崎・東京間の経度差を測定した。この時、東京での観測は海軍観象台敷地内に従来からあった石盤上を選定して行われた。のちにチットマン点と呼ばれる一地点である(現在の経緯度原点の東5.1mに位置する)。観測の結果、チットマン点について東経139度44分57秒の値を得た。グリニッジを起点として地球を「西回り」で経度を求めたことになる。 1876年(明治9年)には水路局の大伴(肝付)兼行中尉が海軍観象台敷地内(のちに肝付点と呼ばれる地点)でタルコット法による天文観測(赤道儀測定値)をもとに緯度を算出した。 1881年(明治14年)、米国海軍水路局のグリーン、デービスらが経度の再測定を行ったが、これによりチットマン点の値も修正された。 1882年(明治15年)10月、海軍は老朽化した標竿に代わり、チットマン点を測量の基準に定めた。
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