学習院長
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予備役編入から6年間、千歳船橋(現・東京都世田谷区・小田急電鉄 千歳船橋駅付近)に閑居していた山梨であるが、昭和14年(1939年)10月、宮内大臣・松平恒雄(山梨と共に大正10年(1921年)のワシントン海軍軍縮会議で随員を務め、山梨の人柄を良く知っていた)と、海軍大臣・米内光政の両名の推挙により、皇太子・明仁親王の教育を任せられる人材として学習院長に就任した。明仁親王は、翌年の昭和15年(1940年)4月に学習院初等科に入学した。
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