学習院時代とは? わかりやすく解説

学習院時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:19 UTC 版)

香淳皇后」の記事における「学習院時代」の解説

1907年明治40年9月2日学習院女学部幼稚園入園足立たか回想によると幼稚園では皇族は他の在籍児童らとは別室昼食をとるが、そのとき妹の信子女王の他、後に自身結ばれる迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)と淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と同室であった教諭野口幽香子は、この様子を見て迪宮良子女王縁組予感した。 1909年明治42年)、学習院女学部小学科入学小学科2年生の時、授業出たタライが分からなかったことを機に、自ら洗濯仕方学び後年まで侍女たちと共に洗濯をするようになった1912年(明治45年/大正元年7月30日、後の義祖父に当たる明治天皇崩御後、母俔子妃や妹宮とともに昭憲皇太后元へ弔問のため参内し皇太后目に留まる1915年大正4年)、学習院女学部中学進学前年1914年大正3年4月9日崩御し昭憲皇太后遺志によって、1915年大正4年)夏に迪宮裕仁親王学友らと箱根神山登山をした際、良子女王同地宮内旅館での見送り一員加わった1916年大正5年11月3日迪宮裕仁親王立太子の礼が行われた。この頃から、貞明皇后学習院女学部へ、式典以外でも行啓して少女たちの態度観察するようになった学友達の回想では、少女たちがはしゃぎまわる中でも良子女王行儀よく落ち着き、また動作機敏であったという。やがて良子女王は、上級生方子女王や(後、李王垠妃、戦後大韓民国国籍取得同級生一条朝子(後、伏見宮家博義王妃)とともに皇太子裕仁親王有力な候補みなされるうになる英照皇太后九条家昭憲皇太后一条家貞明皇后九条家であり、一条朝子有力視された。しかし、方子女王皇太子同い年であることが、一条朝子血縁的に近すぎることがそれぞれ懸念され良子女王皇太子妃内定する至った

※この「学習院時代」の解説は、「香淳皇后」の解説の一部です。
「学習院時代」を含む「香淳皇后」の記事については、「香淳皇后」の概要を参照ください。

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