幼少・皇太子時代
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6歳だった1907年(明治40年)12月18日に、両親(当時皇太子だった大正天皇と皇太子妃だった貞明皇后)からクリスマスプレゼントとして靴下に入ったおもちゃを貰っており、皇室が異文化や他宗教に大らかだったことがわかっている。 幼少時、養育係の足立たか(のちの鈴木貫太郎総理大臣の夫人)を敬慕し多大な影響を受けた。学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、その明治天皇を実の祖父に持つ裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様のことはよく知らないが、義経公のことはたかがよく教えてくれたから」と答えたという。 昭和天皇実録の1910年(明治43)1月の記述には、「午前は学習院の授業、午後は御用邸内においてジャーマン・ビリヤード、人取り、玉鬼、相撲、クロックノールなど種々のお遊び」とあり、他には百人一首、木登り、椅子取りなどの遊びをしていた他、1917年(大正6年)には「欧洲戦争将棋」との記述も見える。 11歳だった1912年(明治45年)3月16日に、母の貞明皇后などから聞かされていたイソップ物語に触発され、1作目となる「海魚の不平」と題した物語を自作し「裕仁新イソップ」と名付けている。盲目のウナギが他の魚の才能を羨むホウボウやタイを窘める話で、「自分よりも不幸な者の在る間は身の上の不平を言ふな」との教訓を記している。 学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山(たけやま)」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(この提案に学友が従ったかどうかは不明)。 皇太子時代にイギリスを訪問したとき、ロンドン地下鉄に初めて乗車した。このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は記念品として保存されたという。 この外遊に際して、理髪師の大場秀吉が随行。大場は裕仁親王の即位後も専属理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで5人交代している。この大場をはじめ、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。 皇太子時代から「英明な皇太子」として喧伝され、即位への期待が高かった。北海道、沖縄県、日本領台湾はじめ各地への行啓も行っている。北海道行啓ではアイヌが丸木舟に乗って出迎えた。
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