幼少 - 現役時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 03:59 UTC 版)
オハイオ州の農場に生まれたが、3歳の時に髄膜炎が元で難聴を患った。1872年にオハイオ州の聾学校に進学し、勤勉だったホイは1879年に卒業する際には卒業生の総代をつとめたという。当時他の難聴者がそうしたようにホイも最初靴屋を開き、店の合間に近所の子供達を集め野球をしていたという。 1886年頃にプロのチームから勧誘されたことをきっかけにウィスコンシン州のオシュコシュ球団に所属、2年後の1888年にナショナルリーグのワシントン・ナショナルズ(当時)に入団してメジャーの選手となった。ホイは当時クラブハウスに、『ご存知の通り私は耳が聞こえない。そこでフライを捕る時に大声を上げるので、二塁手、ショート、レフト、ライトはその声を聞いて私との衝突を避けてくれ』と書いた紙を貼り出していた。 ホイがデビューした1年目の打率は.274だったが、リーグ最多となる82の盗塁を記録した。1890年にプレイヤーズ・リーグに参加した後、1891年にはセントルイス・ブラウンズ(現カージナルス)で119四球、出塁率.424という記録を残している。1890年代は主にシンシナティ・レッズのセンターとして、毎年3割前後と安定した活躍を見せた。 1901年にアメリカンリーグが創設された年に、1年だけシカゴ・ホワイトソックスに参加する。既に40歳に近かったが打率.294、60打点、四死球数がともにリーグ最多で4割を超える出塁率を残し、ホワイトソックスのリーグ優勝に貢献した。ホイは1902年にシンシナティ・レッズでメジャーリーグ選手としてのキャリアを終えたが、この年の5月26日のレッズ対ニューヨーク・ジャイアンツ戦では、当時ジャイアンツの投手だったダミー・テイラー(彼も同じく聴覚障害者であった)との対戦が実現している。
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