幼少期から暴走族現役時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 14:17 UTC 版)
「柴田大輔」の記事における「幼少期から暴走族現役時代」の解説
1979年に実業を経営していた日本人の父親と在日韓国人2世の母親の子として東京都調布市で生まれる。小学3年のときに杉並区へ引越す。育った家庭は生活水準はそれなりにあったものの、両親の夫婦仲は悪く、小学高学年くらいから素行が悪くなる。不良として過ごすうちに後に関東連合に連なる暴走族「宮前愚連隊」に入り、関東連合のメンバーである22代目永福ブラックエンペラー総長(以下:M)や松嶋クロスや石元太一、関東連合のメンバーではないが東京の不良として有名だった瓜田純士と知り合う。 14歳の時に事件を起こし、8か月半ほどの少年院送りとなる。 関東連合が対立しているチーマーグループと喧嘩することになった際には、4対4のゴチャマン(8人が一斉に戦うこと)で膠着状態で決着がつかず、代表者同士が戦うことになった際には傍観する立場だったが、杉並の代表格であった瓜田ではなく別人(後に反関東連合グループのトップとなる兄弟の兄)が出たことに不満を持ち、瓜田にヤキを入れた。 1996年2月に敵対チームの自宅を襲撃した事件で暴力行為処罰法違反及び器物損壊罪で逮捕され、別件の敵対チームの集会に紛れ込んだ際に因縁をつけてきた暴力団関係者を暴行した事件でも送検された。家裁での判断は試験観察処分の補導委託(民間ボランティアに非行のあった少年を預けて、通学や仕事をさせながら生活指導する制度)となった。補導委託先として配管工の親方に預けられたが、柴田が暴力や暴言を日常的に使い、更には飲酒運転まですることから、親方は在宅試験観察にするように弁護士を通じて家裁に交渉し、その結果1か月後には在宅試験観察となり、自宅に戻ることになる。 対抗グループへの襲撃だけでなく、チーム名を入れたステッカーの販売やイベントのパーティー券の販売といったものから、偽造テレホンカードの販売から携帯電話の横流しまで、組織だった集金活動をするようになった。そうして親の金に頼らず、自分で多いときは月に100万円に近い収入を得ることもあり、その金で暴走族活動に必要な床屋代、コテ服代、バイク代、携帯電話代に費やしていた。 1996年12月に関東連合は柴田の8学年ほど年上である関東連合OBである多田達也(仮名)と接近。多田は本業のAVプロダクションの傍ら、渋谷の街を中心に様々な10代の女性を集めて選りすぐりの美女を金持ち実業家を相手に接待させ、芸能・クラブ・不動産といったあらゆる業界の人脈を持ち、渋谷や六本木に進出する関東連合のパイオニア的存在であった。 1997年1月に関東連合が捕まった仲間を激励する名目での集会に警察が駆け付けた際に柴田やMらが関東連合メンバーがバイクで暴走していた最中に、関東連合メンバーが交通事故を起こして一般人を死なせてしまう事件が発生。柴田ら関東連合メンバーは密かにバイクを処分した後で多田に相談し、柴田とMは集会を主催していないと口裏わせをした末、逮捕された後で死亡事故については問われず暴走行為について罰金刑となった。 柴田らが交通事件の相談を多田として以来、関東連合と多田との距離が急速に縮まった。柴田は「多田の下で関東連合という組織で関東周辺のあらゆる不良少年やサークルや読者モデル等の若者たちを押さえ、様々なビジネスを展開する」ことを考えるようになり、多田についていくことを決める。柴田は多田が主催した接待相手もいる高級店での出所祝いで「女を集めれば金になる。柴田、お前にはできるか」と言われ、「下の者に連れてこさせます」と返事し、現役メンバーに連絡して1時間後に3人の読者モデルを連れてこさせた。多田は柴田の女性を集める力に感心し、接待相手からは現金が渡された。 関東連合が多田との付き合いをしたことで活動拠点は広がったが、兄弟グループをトップとする新宿ジャックスは放置できない敵意の対象となっていった。 敵対グループとの抗争合戦が起こった末、1997年7月に乱闘事件が起こり死傷者を出す事件に関与。多田のツテで3か月間ほど匿ってもらっていたが、下手打ちをしたことでヤキを入れた後輩に潜伏先を警察に通報されて1997年10月に逮捕され、特別少年院送致となった。多田は柴田を匿った犯人隠避の容疑で逮捕されたが、起訴猶予で釈放された。
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