幼少期から結婚まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:19 UTC 版)
「マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ」の記事における「幼少期から結婚まで」の解説
1758年、オーヴェルニュのモンブリゾンに生まれた。父ジャック・ポールズ(フランス語版)は当時王室検事で、後の1768年には徴税請負人(フランス語版)となる。母クロディーヌ・トワネはブルジョア階級の家系である。2人の間には3人の息子と1人の娘が生まれ、マリー・アンヌは末子であった。マリー・アンヌが生まれたとき家は裕福であったが、3歳のときに母は死去した。 1771年、女子修道院付属学校に通っていた当時12歳のマリー・アンヌに、母の伯父である財務総監ジョゼフ・マリー・テレイ(フランス語版)から結婚話が持ち掛けられた。相手のダメルヴァル伯爵は当時50歳と父親よりも年上で、評判も良くなかった。マリー・アンヌは結婚するか修道院に行くかの選択を迫られたが、この結婚話には乗れなかった。徴税請負人である父ポールズとしては、立場上、財務総監からの話を断ることは自分の地位を危うくさせることであったのだが、娘の気持ちを汲んで、テレイに断りの手紙を送った。 ポールズに断られたことでテレイは憤慨し、ポールズの持つ地位を奪おうとしたが、これは友人の説得により思いとどめた。しかし、結婚についてはまだ諦めていなかった。そのためポールズは、この好ましくない結婚話を無くすために、娘を他の人と結婚させてしまおうと考えた。そして1771年11月、同僚の徴税請負人であるアントワーヌ・ラヴォアジエを娘に紹介した。アントワーヌは当時28歳で将来有望、徴税請負人であるため収入もあり、容姿も魅力的だった。好みでない男と結婚させられそうになっていたこともあったため、マリー・アンヌもこの話には同意した。両家の家格も同等であったことから話は早く進み、2人は出会って4週間後の1771年12月に結婚した。マリー・アンヌはこのとき13歳で、これは当時としても早い結婚である。
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