幼少期から芸能界デビュー(1970年 - 1988年)
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「相田翔子」の記事における「幼少期から芸能界デビュー(1970年 - 1988年)」の解説
芸能界にデビューして一人暮らしを始めるまで、家族と共に東京都東村山市で育つ。 子供の頃は、やんちゃでイタズラ好きだったという。3歳の時、肥溜に落ちて偶然通りかかった姉と友達に助けられたことは、トーク番組でよく話題にされる。歌が好きで、よく姉とピンク・レディー等の歌を歌っていた。ピンク・レディーではケイのファンであった。小学校低学年の頃、近所の友達を集めて草芝居を行うなど活発な少女だった。しかし、幼少期は知らない人の前で何かをすることができず、芸能界への憧れはまるでなかったという。 中学時代クラッシュギャルズに憧れ、入団テストを受けるためトレーニングをしていた。全日本女子プロレスのオーディションに数回応募するが、いつも不合格で断念する。 中学2年生(当時14歳)の時に、友人の応募でオーディションを受けたことがきっかけで、渋谷で芸能プロダクションのマネージャーにスカウトされたのち、芸能プロダクションに所属、歌手としてのレッスンを受け始める。母はかつて歌手に憧れていたためその夢を応援したが、父は芸能界への不安から反対した。そのため当面はモデルとして活動し、歌手デビューは高校進学後にと事務所と話し合っていた。 高校時代は複数のアルバイトを経験。紙袋をつくる内職 → 工場で冷凍ラビオリなどの箱詰め(姉と共に) → 惣菜屋(秋津商店会) → ハンバーガーショップ(高校2年から) → 居酒屋(新秋津駅前) → パン屋「サントアン」(新秋津駅前)の順で働いた。 高校2年生(当時16歳)の時にソロ歌手としてのデビューが予定されていたが、校則で禁止されていることを理由に辞退。堀越高等学校への転校も考えたが、多くの芸能人が並ぶ中でのプレッシャーに耐えられないと考え、断念。すでにデビュー曲はレコーディングも済んでおり、現在の感覚で言えば訴訟沙汰にもなりかねない事態であったが、当時の事務所の社長の配慮もあって大事には至らなかった。本人はこの選択を後悔しておらず、後年の談話では、その時デビューしていたら自己主張できず、消えただけだろうと語っている。なお、「幻のデビュー曲」となったこの楽曲は、歌手桑田靖子が歌っていそうな硬派な路線で、翔子は大変気に入っていたという。 1987年9月、ワニブックス社の雑誌『UP TO BOY』の第9代ミスアップ・グランプリを受賞(第7代グランプリが後にWinkとしてデュオを組むことになる鈴木早智子)。
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