幼少期から自動車製造事業を始めるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 02:05 UTC 版)
「李書福」の記事における「幼少期から自動車製造事業を始めるまで」の解説
1963年6月25日に、李は浙江省台州市の農家の息子として生まれた。 幼少期はいたずら好きであり、学業成績も突出していたわけでもなく、高校生の時には大学の入学試験にも落第した。そのため、高校卒業時に父親から120元を受け取り、写真撮影事業を始めた。当初は公園や路上での撮影しかできなかったものの、半年後に売り上げで写真館を開いた。あるとき、李は地元で生産されていた冷蔵庫の部品の売り上げが好調であることにたまたま気づき、自宅で冷蔵庫の部品を製造し、その部品を組み立て工場へと卸すという事業を始めた。 1984年、李は21歳のときに、数人の兄弟とともに「黄岩県石曲冰箱配件工場」という部品工場を設立し、そこの工場長となった。翌年に、李は冷蔵庫そのものを製造することを決め、1986年に「黄岩県北極花電冰箱工場」を設立し、そこの工場長へと異動した。この工場は1989年までに年間生産量が1000万個を超え、工場には毎日冷蔵庫を運送するトラックの長蛇の列ができた。しかし、当時の政府が冷蔵庫を定点生産制度の対象に追加し、民間会社であった李の工場は生産拠点に含まれなかったため、李は工場の閉鎖を余儀なくされた。 工場を閉鎖した李は、勉強をするために深圳大学を訪れたが、装飾の原材料を取り扱う市場を訪れた際に、輸入された装飾の原材料の市場の景気が良好になる見通しであるということに気づいたため、勉強を中断して台州に戻り、兄弟とともに「吉利装潢材料工場」 という工場を設立し、工場長となった。この工場は発泡プラスチックをアルミニウムで挟んだ「アルミ複合板」を製造する工場であり、この事業は現在でも吉利集団の主要な収益源となっている。また、この時、李は当時不動産バブルの中心地であった海南省に数千万元を持って訪れ、不動産を購入したものの、バブルが弾けたため、大損することとなった。この時に李は、自分はビジネスしかできない人間であると気づき、浙江省へと戻った。
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