幼少期から絵を志すまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:21 UTC 版)
1895年6月18日、福岡県久留米市の善福寺の住職(古賀正順)の長男として生まれた。善福寺は江戸時代初期からの歴史を持つ浄土宗の寺である。古賀春江は、父・正順が53歳、母・イシが43歳の時の子供でただ一人の男子だった(古賀春江が生まれる前に3人の女の子をもうけたが、2人は早世した)。松田実(後述)によると、そのために両親や姉の溺愛を受けて育ったという。また、小さいときから病弱で神経質な子供だったともいう。後に妻になる岡好江が残したメモにも、古賀は生来病弱で、子供のときから外に出ることを嫌い、毎日読書や絵を描いて暮らしたこと、規則に縛られることを嫌い、孤独を愛したことなどが記されている。 1902年(明治35年)4月に久留米日吉尋常小学校に入学、1906年(明治39年)3月小学校を卒業し、4月には久留米高等小学校へ入学、1910年(明治43年)同高等小学校を卒業、同年4月に中学明善校へ入学、この頃から久留米市の洋画家松田実(諦晶)に絵を習い始めた。1912年(明治45年)、中学3年の時に、両親の反対を押し切って退学、洋画研究のために上京し太平洋画会研究所に通った。翌1913年(大正2年)には、日本水彩画会研究所へ入って石井柏亭に師事した。この年、当時雑司が谷に住んでいた坂本繁二郎を訪問した。 1914年(大正3年)、同居していた友人の藤田謙一が自殺したことに衝撃を受けて精神が不安定になった。このため、心配した父親が古賀を帰郷させた。帰郷中も精神不安定な状態で、家を抜け出し阿蘇山で投身自殺をおこしかけ、地元の人に止められたと言われている。翌1915年(大正4年)1月に長崎に遊んだ後、2月に僧籍に入り、良昌と改名、春江を呼び名とした。3月には再び長崎に戻った。長崎滞在中に、父の従弟の娘と恋愛関係になった。2人は熊本の山鹿温泉に逃避行したが、まだ女学生だったため追いかけられてつかまり、2人は離されてしまった。その後、久留米に戻ってきている間に、岡好江と恋愛関係になった。岡好江は久留米ではよく知られた文学好きの女性で、古賀より4か月ほど年上だった。勝気で姉さん女房型の女性だったと言われている。岡は当時、結婚に失敗して久留米に戻ってきていた。双方の親達は結婚に反対だったが、結局、善福寺を継ぐことを条件に許された。後年好江は、古賀の女性問題や家計のやりくりで苦労させられた。好江なくして古賀の画家としての大成はなかったと評する人もいる。 この年の冬に再度上京した。翌年の1916年(大正5年)7月に父親を亡くし、父の後を継ぐために宗教大学(後の大正大学)の聴講生になり、学業の傍ら絵の制作に励んだ。同年には日本水彩画会員に推された。
※この「幼少期から絵を志すまで」の解説は、「古賀春江」の解説の一部です。
「幼少期から絵を志すまで」を含む「古賀春江」の記事については、「古賀春江」の概要を参照ください。
- 幼少期から絵を志すまでのページへのリンク