幼少期から政治家になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:49 UTC 版)
「ゴードン・ブラウン」の記事における「幼少期から政治家になるまで」の解説
1951年、スコットランドのグラスゴー生まれ。父はスコットランド長老派教会の牧師であった。ファイフ州のカーコーディー高等学校(英語版)在籍時にラグビーの競技中の事故で網膜剥離を患い左目を失明しており、現在は義眼を用いている。成績優秀により16歳でエディンバラ大学へ進学し歴史学を専攻、優等の成績で卒業した。1982年に労働党左派の政治家ジェイムズ・マクストン(英語版)に関する研究でエディンバラ大学よりPh.D.を取得している。 学生の身分でエジンバラ大学の運営評議会の議長 (Rector) に選出された他、左派新聞のレッド・ペーパー・オン・スコットランドの編集長も務めた。エジンバラ大学での臨時講師を経てグラスゴー工科大学(英語版)にて政治学の講師を務めた後、スコティッシュ・テレヴィジョン(英語版)でジャーナリスト、テレビプロデューサーとして働いた。1979年の総選挙にはエジンバラ南区より労働党候補として立候補したが、保守党所属のマイケル・アンクラム(英語版)に敗れ落選する。 1983年の総選挙ではダンファームリン東区で労働党候補として立候補し当選。1985年には影の内閣貿易・産業省のスポークスマン、その後影の内閣財務大臣、貿易・産業大臣を務めた。 1994年5月の労働党党首ジョン・スミスの急死に際しては後継候補として有力視されたが、彼はこれを辞退してトニー・ブレアに党首の座を譲った。この際の経緯に関して、2人の間には密約が交わされているとの噂があり、ロンドンのイズリントン地区のレストランで会食した際に、ブレアを党首とする代償としてブラウンが経済政策を取り仕切ること、そしてブラウンをブレアの後継者とすることが約束されたと言われる(ブレア=ブラウン密約)。それぞれ労働党の左派と穏健派を代表する2人の間には政治的対立があるとの報道がなされることが多い。
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