幼少期から就職まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:34 UTC 版)
石原は1915年(大正4年)静岡県田方郡の港町、'"`UNIQ--templatestyles-000000FD-QINU`"'土肥(とい)村 (現在の伊豆市) に生まれた。 1928年(昭和3年)、13歳の時に東京市目黒の攻玉社中学校に入学、1933年(昭和8年)同中学校を卒業し、その年と1934年(昭和9年)に続けて東京高等師範学校を受験したが共に失敗、1934年に東京外国語学校 (後の東京外国語大学) へ入学した。在学中にマルクス主義やエスペラント語を学び、学芸部でも活動した。在学中の1937年には校友会雑誌『炬火』の編集にあたっていた。在学中に触れた、北條民雄の小説『癩院受胎』と手記には大きな衝撃を受けた。 1938年(昭和13年)春、石原は東京外国語学校ドイツ部を卒業、その後大阪ガスに就職した。同年6月に徴兵検査を受けた石原は (結果は第2種乙種)、その後まもなくキリスト教の洗礼を受けた。もっとも、石原自身の回顧では自分は熱心な信者ではなく、聖書を真面目に読むでもなく、教会に熱心に通ったわけでもないと述べている。キリスト教、プロテスタントを選んだのも単なる偶然にすぎず特に深い理由があったわけではないとも書いている。 当初は、自分のアパート近くにあった住吉教会 (日本基督教会派) へ通っていたが、そこの教会の牧師の説教が常識的なものばかりであり、かつ当時の軍国主義的風潮に露骨に迎合していることに違和感を感じ、同じ日本基督教会派に所属する姫松教会へ通うことにした。特に、この教会で時々説教をしていたエゴン・ヘッセルという人物を通じて、当時まだ少数派だったバルト神学に触れたことも住吉教会から離れる原因の1つになった。ヘッセルはカール・バルトに直接師事したことがあり、『十字架の言』というかなり専門的な神学雑誌の出版・編集にも携わっていた人物である。 会員だったわけでもないので住吉教会には何らかの義理があったわけでもないが、石原は一応牧師に断った上で姫松教会へ通うことにしたのだったが、後に、大阪南部地域の合同祈祷会が行われた席上、名指しこそしなかったもの、牧師が「主よ、このなかに恥ずべき裏切り者、ユダの徒がおります」と、明らかに石原のことを指して罵倒と挑発に近い演説を行うという事件が起こった。この事件は石原に大きな動揺を与えただけでなく、教会に対する偏見と先入観を残す結果となった。 実際に後年書いたエッセイ「教会と軍隊と私」の中でも、「公開の祈祷の場をかりて私憤をぶちまけ、一人の信徒の出発に重大なつまずきを与えるがごときは、牧師にあるまじき行為であり、あまつさえ罵倒に近いその祈りのあとで、ののしった当の相手の罪の許しを乞うそらぞらしさに至っては、言語道断というほかないものである」と書いている。 変則的な形をとったが、石原は1938年(昭和13年)姫松教会においてヘッセルの手で洗礼を受け、籍は同教会に入った。しかし姫松教会も石原の意にそまず、石原は退職して神学校に入学する気になった。神学校入学の意思は、複雑な事情があり明確な理由があったわけではないが、キリスト教への信仰が主たる理由ではなかったことは確かである。日本基督教会の神学校は、当時、東京と神戸にあり、神戸の中央神学校は自由主義神学系であったので石原はそこを避け、東京の神学校に入学する気になった。また、教会も、1939年(昭和14年)に無教会派の信濃町教会へ転籍し、本格的に受験の準備を始めたが、それから1ヶ月後に召集令状が来たため入学はとりやめになった。
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