選手としてのキャリアとは? わかりやすく解説

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選手としてのキャリア (1990年 - 2006年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:49 UTC 版)

ブライアン・ドーバック」の記事における「選手としてのキャリア (1990年 - 2006年)」の解説

プロ入りまで - 1990年 ベルビル高校ウェスト高校 (いずれもイリノイ州高校) を経て1990年6月4日ニューヨーク・メッツからドラフト17巡目で指名された。指名から11日後の6月15日に、メッツ契約結んだプロ入り後は、マイナーリーグGCLメッツ (ガルフ・コーストリーグルーキー級のチーム) に配属され早速、試合出場したこの年45試合出場し打率.270・1本塁打19打点・2盗塁という成績残した守備面では、31試合ファースト守備に就き、7失策・守備率.976という成績だった。 1991年 この年は、アパラチアンリーグ (アドバンスト・ルーキー級) のキングスポート・メッツでプレイした。最終的に65試合出場して7本塁打42打点記録したが、打率大きく低下 (.243) してしまった。三振65試合64三振喫しミート力に課題残した走塁面では、前年に2盗塁決めて盗塁死1つだけだったが、この年は1盗塁・3盗塁死という成績であり、盗塁成功率低下した守備面では、65試合ファースト守備で9失策・守備率.986という成績記録し前年よりも向上した1992年 リーグランク1つ上げニューヨーク・ペンリーグ (ショートシーズンのA級) のピッツフィールド・メッツに所属した72試合出場打率.242・2本塁打40打点という打撃成績終わり2年連続で.250未満打率終わったばかりでなく、ホームラン大きく減少した。しかし、プロ入り自己ベストとなる15二塁打放ち三塁打 (2本) も合わせて19本の長打放った為、長打数は前年よりも増えた走塁面では、1つ失敗せずに4盗塁決め成長の跡を示した守備では引き続き一塁守り67試合12失策・守備率.982と、ほぼ横這い成績だった。 1993年 この年は、A級・サウス・アトランティックリーグのキャピタルシティ・ボンバーズでプレイし、プロ入り以来自己最多となる102試合出場した打率.280・7本塁打72打点・6盗塁という成績記録し打率打点自己ベスト数字マーク、また盗塁自己最多だった。守備面では、ファースト自己ベスト守備率.989 (46試合) を記録したほか、初め外野守備にも就いた1994年 MLBストライキがあった1994年、ドーバックは更にランク1つ上げ (A+級) 、メジャーへの道のり順調に進んでいた。この年フロリダ・ステートリーグセントルーシー・メッツプレイし、前年上回る129試合出場した打率.273・6本塁打74打点という打撃成績記録1993年とほぼ同等成績だったが、自己ワースト120三振喫した走塁面では、マイナーリーグ自己最多且つ自身初の2ケタ盗塁となる14盗塁記録したが、一方で盗塁死9つ及んだ (盗塁成功率60.9%) 。守備では128試合ファースト守備就いたが、失策12個に留め守備率.991をマークした1995年 この年は、AA級・イースタンリーグビンガムトン・メッツ所属した135試合出場し、初の2ケタ本塁打となる10本塁打放ったが、打率は.250未満逆戻りし2年連続100三振以上を喫するなど、やや不振だった。守備面では、前年比+3試合となる131試合一塁守り前年以下の10失策にまとめた (守備率.992) 。また、1試合サード守備にも就いた同年AAA級・インターナショナルリーグノーフォーク・タイズへの昇格経験し、2試合出場した1996年 前年引き続きAA級・ビンガムトンAAA級・ノーフォークプレイした。まず、ビンガムトンでは122試合出場し打率.296・22本塁打 (チーム最多) ・76打点・OPS0.910という好成績マークし打棒爆発させた。守備では121試合ファースト守備で、11失策・守備率.991にまとめ上げまずまず安定感だった。また、2年連続三塁守備に就く機会があった。ノーフォークでは17試合出場して6打点をあげたが、打率.204・14三振結果残せなかった。一塁守備は、9試合で無失策だった。 シーズンオフ10月15日メッツからFAとなり、11月7日フロリダ・マーリンズ契約結んだ結局プロ入りからメッツメジャーデビューする事は出来なかった。 1997年 マーリンズ加入1年目となる1997年は、インターナショナルリーグ (AAA級) のシャーロット・ナイツ所属した136試合出場して打率.278・21本塁打93打点・1盗塁という成績マークし2年連続20本塁打80打点ラインクリア前年好成績がまぐれでない事を証明した守備面では、101試合一塁守備失策8つ留め100試合以上ファースト守ったシーズンとしては、自身初の失策1ケタ台だった。攻守両面安定した成績残したが、10月17日マーリンズからFAとなり、所属先が決まらないまま越年する事になった1998年 FA状態で新年迎えたドーバックだったが、年明け早々1月6日マーリンズと再契約結んだこの年シャーロットプレイしたが、これまでとは打って変わって外野 (主にライト) のレギュラー起用された。マイナーリーグ自己最多の140試合出場し打力開花した過去2年比べてハイレベルな成績記録した打率.316・35本塁打 (マイナー通算100本塁打達成) ・124打点・9盗塁・OPS1.055という内容であり、本塁打マイナーリーグ全体で6位タイ打点は同4位だった。守備面では、前述したようにライト守った試合数 (97試合) が最多で、次いでファースト25試合レフト8試合だった。 マイナー好成績残したドーバックは、9月10日の対コロラド・ロッキーズ戦で、実にプロ入り9年目初めメジャー舞台上がった。同試合では「5番ファースト」でスタメン起用されたが、記念すべきプロ安打放つ事は出来なかった。この年最終的に10試合出場し打率.200・3打点という打撃成績残した守備は、メジャー昇格後ファースト戻ったメジャーデビューや、マイナーでの大活躍等があったドーバックだったが、同年オフ11月19日マーリンズから解雇された。しかし、すぐさま移籍先を見つけ、約1ヵ月後の12月18日ボストン・レッドソックス契約結んだ1999年 メジャー2年目となる1999年、ほぼ1年通じてメジャー定着しファーストDH中心に110試合出場した8月15日にはプレイヤー・オブ・ザ・ウィーク (週間MVP) を受賞し最終的に打率.294・21本塁打73打点・OPS0.921という好成績マークシーズン終了後ルーキー・オブ・ザ・イヤー投票で4位にランクインした (同年受賞者カルロス・ベルトラン) 。この年マイナーではポータケット・レッドソックス (AAA級) で9試合出場したけだった2000年 レッドソックス移ってきて2年目シーズンファーストレギュラーに完全に定着しチーム内では最多142試合出場した (DHとしても41試合出場) 。打撃面では、初め規定打席到達し2年連続21本塁打放ったが、打率.248に終わり、ア・リーグワースト8位の130三振喫するなど、マイナー時代からの課題であるミート力の低さ露呈してしまった。一方守備面では83試合ファースト守り、3失策・守備率.996と堅実だった。 2001年 引き続きレッドソックスファーストレギュラー務めた122試合出場して打率.263・22本塁打 (自己ベスト) ・71打点・1盗塁という成績残した打率前年から上昇し三振108個まで減らした守備では、106試合ファースト守った (11失策・守備率.988) ほか、外野守備 (ライト・レフト) に就く機会もあった。なお、DHとして試合出場する機会はなかった。この年2年ぶりにマイナープレイする機会もあり、ポータケットとローウェル・スピナーズ (A-級) で各1試合ずつ出場した2002年 2002年ポジション固定されず、ユーティリティ・プレイヤーとして起用されたが、計137試合出場して2年ぶりに規定打席到達打率.266・20本塁打78打点・2盗塁という成績残し4年連続20本塁打以上を放ったほか、打点自己ベスト数字叩き出したマニー・ラミレス (33本) 、ノマー・ガルシアパーラトロット・ニクソン (以上24本) の3選手と共に20本塁打カルテット構成した守備面では、ファースト60試合 (守備率.990) 、レフト35試合ライト13試合 (以上守備率1.000) の守りに就き指名打者として28試合起用された。シーズンオフ12月21日FAとなった2003年 1月27日シカゴ・ホワイトソックス契約結んだホワイトソックスでは定位置を掴む事が出来ずユーティリティとして95試合出場したが、いずれもメジャーデビュー年 (1998年) 以来となる、自己ワースト2位打率.230・6本塁打21打点という成績終わった守備では前年と同様、ファースト・ライト・レフトとDH起用された。12月10日ホワイトソックス解雇された。 2004年 年が明けて1月14日レッドソックス契約を結び、2年ぶりに古巣復帰した。だが、以前のような打棒発揮する事は出来ず僅かに30試合出場打率.227・2本塁打・8打点という打撃成績終わったこの年から、再びマイナーで過ごす期間が長くなり、ポータケット93試合出場したマイナーでは格の違い見せつけており、打率.271・21本塁打81打点・OPS0.927という好成績マークした守備面では、78試合一塁守備に就き、5失策・守備率.992という内容だった。シーズンオフ10月4日FAとなる。 2005年 2005年はなかなか所属先が決まらず、3月8日になってようやくメッツ契約を結び、9年ぶりにプロ野球選手としてキャリアスタートさせた古巣復帰となったメジャーでは15試合出場したが、打率.120・1本塁打・3打点という内容終わり結果残せなかった。一方マイナーでは、ノーフォーク99試合出場し打率.325・16本塁打62打点・1盗塁・OPS0.979という好成績残した守備は、71試合ファースト守備に就き、2失策・守備率.997と堅実な成績記録。9試合レフト守りにも就いた10月3日メッツからFAとなるが、12月20日セントルイス・カージナルス契約を結び、年内所属先を見つけ出した。 2006年 カージナルスでは、パシフィックコーストリーグ (AAA級) のメンフィス・レッドバーズ67試合出場したが、8月8日解雇される以後契約結んでくれる球団表れず、同年限り引退したメジャー試合出場したのは、2005年メッツ所属時が最後となった

※この「選手としてのキャリア (1990年 - 2006年)」の解説は、「ブライアン・ドーバック」の解説の一部です。
「選手としてのキャリア (1990年 - 2006年)」を含む「ブライアン・ドーバック」の記事については、「ブライアン・ドーバック」の概要を参照ください。

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