日独同盟・サムライ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
当時、紙面はナチス・ドイツの国策に従い作られた。戦争遂行にあたっては国民の戦意高揚が課題であり、負け戦が続くと紙面づくりは難しかった。スターリングラードでのドイツ軍敗北を伝えた1943年2月4日の『民族の監視者』は、敗北を美化し スターリングラードをめぐる第六軍の戦闘は止む・彼らは死んだが、それによってドイツは生きる としている。同盟国である日本の報道も同様で、大本営発表が日本の戦果を水増しして勝利を装い、ドイツは日本の「奮闘」を絶賛した。「カミカゼ」についても当然のごとく、ドイツは肯定的に報じた。 しかし日独の国家レベルでの接近は、個人の親交だけでは成し得ないため、国民へのプロパガンダも進められていた。大衆を扇動し、大衆の支持によって権力を得たヒトラーにとって、「大衆のムード」は最大の政権基盤だった。政府が先行しても、国民の意識が付随しなければ危うい。そこで手腕を発揮したのは国民啓蒙・宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスであり、ゲッベルスは日本のイメージアップとして「サムライ」イメージに注目した。ゲッベルスのプロパガンダの一つは映画であり、1937年に日独合作映画『サムライの娘』(邦題:新しき土)が公開された。この映画の撮影チームには、日本軍に航空機などを売り込んだ武器商人フリードリヒ・ハックも加わっており、様々な面で映画はドイツと「サムライの国」日本を接近させた 映画と並行し、人の交流も行われた。日本からの「大日本青少年ドイツ派遣団」は、ニュルンベルクの党大会でヒトラーと握手し、ドイツの新聞には「日本のサムライ来る」と見出しが打たれた。また、ドイツが制作した日独伊三国同盟のポスターには、鎧兜姿の巨大なサムライが、海上の敵戦艦に刀を振り下ろしている。1944年に日本の特攻作戦についてドイツが肯定的反応を示したのも、ドイツ国民に浸透した「サムライ」イメージが影響していた。この「サムライの国」の特攻作戦を、空軍大佐のハヨ・ヘルマンは、現実の戦略として練り上げた。
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