日琉祖語との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 15:03 UTC 版)
この節では上代特殊仮名遣がどう成立したかについて、日琉祖語との関係を中心に現在の定説を解説する。そのためにまず、古い時代の記録されていない言語をどうやって知るかという歴史言語学の方法論(再構)について理解する必要がある。 一般にある言語について、同じであったり近い意味を持っていたりすると考えられるのに微妙に語形のことなることば(異形態)を比較することで、より古い状態(共時態)がどのようなものであったかを理論的に予想することができる、という考え方が内的再構である。抽象的なことを言っても分かりづらいため、さまざまな先行研究が上代日本語よりも古い共時態について理解しようとして上代日本語の内的再構を行ってきたうち、最も典型的な例を幾つか挙げる: ※「甲 < 乙」は「甲は乙に由来する」という意味である。 sake₁ri「咲けり」< *saki-ari「咲き-あり」 nage₂k-「嘆く」< *naNka-ik-「長-生く(長く息を吐く)」 kazo₁pe₂-「数える」< *kaNsu-apai-「数-合える」 tudo₁p-「集う」< *tuNtu-apai-「粒-合う」 sito₁ri ~ situri「倭文」< *situ-əri「しつ-織り」 utusemi₁ ~ utuso₂mi₁「現身」< *utusi-əmi「現し-臣」 pe₁ki₁「日置」< *pi-əki「日-置き」 waki₂ratuko₁ 「菟道稚郎子」< *waku-iratuko₁ 「若-郎子」 take₂ti「高市皇子」< *taka-iti「高-市」 to₂neri「舍人」< *tənə-iri「殿-入り」 この分析=内的再構を通して示唆される音韻変化を認めると、「イ・エ段乙類とエ・オ段甲類は語幹・形態素の末尾に集中して見られる」という事実は、「形態素境界で接していた母音が上の例で起こっているように融合 (音声学)(英語版)したからだ」と考えることができるようになる。母音の融合というのは、例えば伝統的な東日本方言で「無い」を「ネー」と言うような現象である(「高市皇子」の成立で起こっているのは奇しくもこれとあまり変わらない音韻変化である)。したがってこれを敷衍することで、例えば「酒(さけ乙)」は、古い時代には「サカィ(*sakai)」のように発音されていたものが、「ナイ → ネ」に類似する母音の融合によって「サケ乙」という形(写映形、英語: reflex)をえたのではないか、といったことが考えられるようになり、さらには「酒屋(さかや)」などに見られる「さか-」という形(被覆形)がこれを支持すると言える。 また、日琉語は古い類音素(英語版)(厳密な言い方をしないと、ここにあるような音韻対応表の一列一列のこと)を構築するための資料(例えば琉球諸語から再構される琉球祖語などがその顕著な例である)があり、これも過去の言語について知る手助けとなる。上の例のように母音の融合に関する内的再構を一思いに敷衍してイ・エ段乙類とエ・オ段甲類を説明するだけだと、他の共時態とともに構築する古い類音素のすりあわせでいろいろの撞着が生ずることが分かっている。この食い違いを研究することも歴史言語学の対象で、比較再構(外的再構)とよばれる。現在では琉球諸語・上代東国諸語との比較再構の結果、すくなくともエ・オ段の甲類に相当する類音素は最初からあったもの(日琉祖語の *e, *o)も含まれていると考えられている。例えば「婿(も甲こ甲)」の「も甲」は日琉祖語の *ua(cf. 数える)/*uə(cf. 倭文)などではなく、*mo… のままであった。(日琉祖語の *e/*o の詳細は下表、及び記事「日琉祖語」を参照) 以上の概ねの要約をすると、上代日本語のイ段・エ段・オ段のそれぞれ甲類の一部と、オ段の乙類のほとんどすべて以外は上代日本語以前の母音の連続におおむね起源しているといえる。なお、これは現在の定説となっている。 如上の事実は、上代特殊仮名遣の音価を推定する材料になる。つまり、一般に歴史比較言語学が想定する音韻変化(上代特殊仮名遣の成立も音韻変化のひとつである)は 物理的にありえるか(音響音声学的にもっともらしい) 生理的にありえるか(調音音声学的にもっともらしい) 世界の諸言語を見たときに類似の現象がありえるか(言語類型論的にもっともらしい) といった、さまざまな自然言語として存在するための条件をくぐりぬけたものでなければならないので、自ずと想定しうる上代特殊仮名遣の姿は狭まる。さらにそのうえ、その前後の音韻変化が最もスムーズかつ合理的に説明できるものでなければならないという条件もあるので、想定されうる状態はさらにまた狭まる。このように、上代特殊仮名遣の音価の推定は当てずっぽうではなく、合理的な手法によっている。ただし、狭まるといっても完全に定められるほど狭くなっているわけではないので、上代特殊仮名遣の「具体的な」音価に現状定説と呼べるものはない。 これまでの節で上代特殊仮名遣がどんな現象で、どんな発音をされ、どんな音韻論的位置にあったのかということに関する研究や論争の歴史について概説してきたが、その研究に反映されている上代特殊仮名遣のできる前の姿が持っていた共通の素性をまとめると、下表のようになる。 (下表)上代特殊仮名遣の概ねのできかた概ねの特徴日琉祖語上代日本語前母音 *i/*e (語中) イ段甲類 下降二重母音 *ui/*oi/*əi (=*ɨi) イ段乙類 非狭前母音 *e/*ia/*iə エ段甲類 下降二重母音 *ai/*əi (≠*ɨi) エ段乙類 後母音 *ua/*uə/*o オ段甲類 中母音 *ə(, *ɨ) オ段乙類 なお、括弧内に示しているのは日琉祖語に関して7母音説をとった場合の「音素」である。
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