その後のローマの活動
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「アッシュリア属州」の記事における「その後のローマの活動」の解説
118年のハドリアヌスによるアッシュリアおよびその近隣の属州からの撤退は、この地域におけるローマによる支配の終了を意味しなかった。161年から165年にかけて、ローマ皇帝ルキウス・ウェルスの指揮の下、ユーフラテス側の東部の領域を再度征服するためにパルティアへの軍事作戦が開始された。さらに197年から198年にかけて、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスによってパルティアへの更なる軍事作戦が行われた。この軍事作戦の成功の後、セウェルスはトラヤヌスが属州を置いたのと同じ地域にオスロエネおよびメソポタミアの2つの属州を設置した。セウェルスもまた、安全保障およびパルティア、後にはサーサーン朝ペルシャからの攻撃を防衛するために、この新たな属州に2つのローマ軍団を配置した。この地域へのローマの影響は363年の皇帝ヨウィアヌスの時代に終わった。ヨウィアヌスはサーサーン朝ペルシャとの間に早急に平和協定を結び、自身の政治力を強化するためにコンスタンティノープルへと撤退した。
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