その後のロジャーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 19:42 UTC 版)
「サンフランソワの襲撃」の記事における「その後のロジャーズ」の解説
アマーストはロジャーズの報書に同意してこう返答した、「お前の報告の一つ一つは、非常にいい判断でなされたものであり、私が称賛するに足るものである」 サンフランソワの襲撃ではロジャーズは敵を200人殺し、20人の女子供を捕虜としたと言われている一方で、子供5人を捕虜としてあとは逃がしたと言っている。また、フランス側の報告によれば、女子供20人を含む30人を殺した。フランシス・パークマンによれば、レンジャーズは襲撃で戦死1人、負傷6人を出し、退却の際にもある小隊の5人が捕囚され、ほかの小隊の20人が戦死または捕囚だった。また、出発時の204人のうち、生還したのは約100人であったと断言している。 ロジャーズはこの襲撃後、ケベックでイギリス軍の任務に就き、アマーストの命令で、レンジャーズを五大湖地方に派遣して、翌1760年の末に、その地のフランスの砦を攻略した。デトロイト砦の降伏により、ロジャーズはさらに英雄視された。後にポンティアック戦争が勃発した際には、再びデトロイトに赴いた。
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