その後のルルド
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「ベルナデッタ・スビルー」の記事における「その後のルルド」の解説
1925年に列福、1933年12月8日、ローマ教皇ピウス11世によって列聖された。テ・デウムが歌われるサン・ピエトロ大聖堂で行われた列聖式には、駐バチカン・フランス大使のフランソワ・シャルル=ルー(フランス語版)による配慮で桟敷席に招かれた、ポーで花作りを営む老人がいた。それは、赤子のときルルドの泉で骨軟化症が快癒したジュスタン・ブオール少年の77歳の姿であった。 その後もベルナデットによって発見された泉の水によって不治と思われた病が治癒する奇跡が続々と起こり、鉄道など交通路の整備とあいまって、ルルドはカトリック最大の巡礼地になり今日に至っている。 19世紀フランスの著名な作家、アンリ・ラセール(フランス語版)の『ルルドの聖母』(1869)はベストセラーとなり、80カ国語に翻訳され、ピウス9世 (ローマ教皇)はラテン語の序文を寄せて、この著作を「深淵で力にみちたもの」と称賛した。しかし、今日のルルド信仰の盛況を決定づけたのは、アレクシス・カレルの『ルルドへの旅』(1949)である。エミール・ゾラの『ルルド』(1894)を読み、単なる好奇心でルルドにおもむいたカレル(小説中の「レラック」はその逆さ読み)は、マリー・フェランという名前の末期の結核患者に出会った。「結核性腹膜炎で臨終」 と 思われていたマリーの最期の願いはルルドの泉で水浴をすることであった。マリーの病状は手の施しようのないもので、担架で泉まで運んでも「途中で亡くなるだろう」 と思われた。しかし奇跡は、血管縫合や臓器移植に関する先駆的研究で後にノーベル生理学・医学賞(1912年)を受賞することになる若き医学生の目の前で起こった。 ピウス9世 (ローマ教皇)以来、歴代教皇は、ルルドへの厚い信仰を寄せた。2004年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が8月15日の聖母被昇天の祝日にルルドを訪問した。元フランス大統領ジャック・シラクと聖女と同名の夫人ベルナデット・シラク(フランス語版)が応接した当日、ルルドには少なくとも30万人の巡礼者がいたと推定されている。 また、2007年、前・ローマ教皇ベネディクト16世は、聖母出現150周年を機会とし、ルルドへの巡礼を推奨し、2012年に教皇はルルドの祝日(世界病者の日)20周年を記念して、みずから病者に塗油を行った。
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