アメリカへの帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 14:05 UTC 版)
「ウィリアム・ヒントン」の記事における「アメリカへの帰国」の解説
朝鮮戦争が終結した1953年、ヒントンはアメリカに帰国した。ヒントンは中国での革命の記録をまとめたいと考えていたが、当時はマッカーシズムの真っ只中であり、中国で記録した書類は税関で押収され、ジェームズ・イーストランド(英語版)上院議員が委員長を務める上院の国内安全保障委員会に引き渡された。その後もFBIからの嫌がらせが続き、パスポートを没収され、教師としての仕事も一切できなくなった。最初はトラックの整備士として働くことを許されていたが、後にブラックリストに掲載され、どこからも雇用されなくなった。そのため、母親から受け継いだ土地で農業を始め、15年ほど農業で生計を立てていた。この間、ヒントンは中国の革命について語り続け、上院委員会から自分の書類を取り戻すための訴訟を行い、最終的に勝訴した。 中国で記録した書類が政府から返還された後、ヒントンは、観察者であり参加者でもあった張庄村の農地改革を記録した『翻身(英語版)』の執筆を始めた。この本は、多くの出版社から出版を断られた後、1966年にマンスリー・レヴュー社から出版され、数十万部の売り上げを記録し、10か国語に翻訳された。この本の中で、ヒントンは張庄村での革命の体験を検証し、中国の農村における対立、矛盾、協力を描いている。 エドガー・スノーが亡くなった後は、中華人民共和国に同調するアメリカ人として最も有名になり、1974年から1976年にかけて米中人民友好協会(英語版)の初代会長を務めた。同協会は、周恩来とのインタビューを掲載して物議を醸した。 1971年には文化大革命のさなかの中国を再訪問した。文革の目的自体は支持しながらも、清華大学での紅衛兵どうしの権力闘争を批判的に描いた『百日戦争』を執筆した。 1980年代にポスト毛沢東政権が人民公社を撤廃しても、ヒントンは中国共産党を支持した。しかし、鄧小平の市場改革により中国が毛沢東の社会主義から離れていくにつれて、ヒントンは中国の政策に対し冷淡になっていった。最終的には、『深翻』(Shenfan。『翻身』(Fanshen)を逆から読んだものと同音となる)や『大逆転』を著し、中国共産党が掲げる社会主義市場経済や改革開放に率直に反対するようになった。 1995年、妻のキャサリン・チウがユニセフの職員としてモンゴルに赴任した際、ヒントンも同行し、モンゴルで農学の指導にあたった。
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