アメリカへの旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 02:44 UTC 版)
「フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン」の記事における「アメリカへの旅」の解説
1791年、フランス革命が激しくなる頃に北アメリカを旅行し、この経験はのちの『ナッチェス(ナチェーズ)族』(Les Natchez 発音例)、『アタラ』(Atala)、『ルネ』(René)といった作品のきっかけとなる。翌1792年、ルイ16世捕縛の報を聞いて帰国した。同年、17歳のセレスト・ド・ラ・ヴィニュ=ビュイッソン(サンマロの船主の一族出身)と結婚。2人の間には子はなかった。 ドイツで亡命貴族軍に加わる。しかし戦闘で重傷を負い、妻を残してイギリスに亡命した。窮乏生活ではあったが、この間にミルトンの『失楽園』(のちに翻訳した)などのイギリス文学に親しんだ。また最初の作品として、フランス革命とは何であるかを省察した『革命論』(Essai sur les Révolutions、1797年)を著した。 1798年頃、母と姉の相次ぐ死などによってカトリック信仰に回帰し、これが人生の転機となった。1800年に許されて帰国し、文芸誌“Mercure de France”の編集に携わった。 1802年には『キリスト教精髄』(Génie du christianisme)を発表した。これは自然・社会・文学など世界の様々な面から神の栄光を讃えた大作で(『ナッチェス族』『アタラ』『ルネ』もその一環として書き始められた)、ロマン主義・汎神論的傾向が強いが、革命後の宗教復活の気運に乗って称賛された。 これによりナポレオンからも注目され、教皇庁大使参事官に任命されたが、大使のフェッシュ枢機卿と折り合いが悪く、さらにアンギャン公ルイ・アントワーヌ処刑にも反発して辞任した。 これ以後、シャトーブリアンは文学生活に入る。初期キリスト教への迫害を扱った『殉教者』(Les Martyrs)を計画し、取材のために1806年、地中海周辺各地を旅行した。このときの経験はのちに旅行記『パリからエルサレムへ』(Itinéraire de Paris à Jérusalem、1811年)や、スペインを舞台にした『アベンセラヘス最後の冒険』(Les aventures du dernier Abencérage、1826年)としても実を結ぶ。 帰国するとナポレオンをネロに例えた批判を書き、パリから追放される。こののち『殉教者』を完成し(1809年)、回想録にも着手した。1811年、アカデミー・フランセーズ会員に推されるも演説で革命批判をしようとしたためナポレオンににらまれ、王政復古まで活動できなかった。 ナポレオン没落後、ブルボン王家を支持した(1815年)ものの、ルイ18世の政策を批判して嫌われ、過激王党派(ユルトラ、次代の王シャルル10世を支持する)に加わる。しかしベリー公暗殺事件後、王とよりを戻しプロイセン大使、イギリス大使、そして外務大臣(1822年 - 1824年)を歴任した。ヴェローナ会議(1822年)では全権大使を務め、五国同盟のスペイン内乱介入に賛成した。これには成功したが、まもなくヴィレール首相によって解任された。 これ以後は、王制を支持する一方で自由主義的な主張をするようになる。シャルル10世即位後、教皇庁大使に任命された(1828年)が翌年辞任した。
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