アメリカへの移転
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1951年(昭和26年)、桂の夫グリーンリーフは羽田陸軍航空隊基地からアメリカ国内へと転属になった。桂は英語をほとんど話せなかったが、アメリカの軍艦ブレッキンリッジ号に乗り、1951年12月の終わりにサンフランシスコに到着した。翌年3月6日には、その年の世界スリークッションビリヤードトーナメントがサンフランシスコで行われる予定であった。このトーナメント会場のオーナーであるウェルカー・コクランが松山から桂の評判を聞いていたため、桂はこの大会に暫定的に招待されていた。コクランはスリークッションで6回、18.2ボークラインにて2回にわたり世界大会優勝経験を持つプレーヤーでもあった 。またコクランは、桂の腕前を見るため息子のW・R・コクラン(海軍士官として日本に駐留していた)を桂の元によこして、「この子は父さんよりも上手いよ!」という返事を受け取っていた。最終的な出場の決定権を持っていたのは、スポンサーであるアメリカビリヤード評議会であったが、評議会もコクランに招待するかどうかの決定を任せた。 桂はアメリカに着くと、コクランを訪れ、その腕前を披露した。コクランが、自身の目で桂の実力を確かめるためだった。その時桂は、ストレートレールで300点と400点を出し、コクランによれば「ほとんど信じがたいショット」を決め、スリークッションでも連続得点による確かな実力を見せつけた。コクランは招待の最終決定を行い、「彼女(桂)は、今まで見たことがないくらいに素晴らしい (……) 相手が何者でも、ウィリー・ホッペにさえも、勝てる力がある (……) 弱点が見当たらない (……) 数多くのプレイヤーを脅かすだろう」と語った。1952年2月、桂は大会へのウォームアップとして多くのエキシビジョンを行っている。
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アメリカへの移転(2009年 - 2010年)
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2009年1月、ハイアット・リージェンシー・ホテルで行われたバラク・オバマ大統領就任記念式とマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの功績を称えるパーティを兼ねたイベントでパフォーマンスした。同年2月には、ミスター・チョウズで開かれたパーティと「オプラ・オスカー」と名づけられたオプラ・ウィンフリー主催の2つのオスカー賞イベントでパフォーマンスした。彼はデイヴィッド・フォスターが制作したオリジナル曲『フィンガープリント』を初めて観客の前で披露した。 同年4月にイタリアの音楽バラエティ番組『ティ・ラッショ・ウナ・カンツォーネ』に出演し、『アイ・ウィル・オールウェイズ・ラブ・ユー』『アイ・ハブ・ナッシング』『プレア』『リッスン』を歌った。同月、ドジャー・スタジアムで行われたロサンゼルス・ドジャース第52シーズン開幕戦において、約5万7千人の野球ファンの前でアメリカ合衆国の国歌『星条旗』を歌った。 同年5月、フィリピンでの2枚目のアルバム『マイ・インスピレーション』を発売した。アルバムは『オールウェイズ・ユー』やヘレン・レディーのカバーで実母とデュエットした『ユー・アンド・ミー・アゲインスト・ザ・ワールド』を含む12曲が収録されている。同年12月にフィリピンでプラチナ認定を受け、その2ヶ月以内にゴールド認定を受けた。 同年5月18日、トーク番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』の「フィナーレ:オプラが探した世界で最も才能のある子供」というエピソードに出演し、ダイアン・ウォーレンが書き、デイヴィッド・フォスターがプロデュースしたジェイク初の国際的なシングル『ノート・トゥ・ゴッド』を観客の前で初めて披露した。シングルは同日にデジタルダウンロード販売が開始され、ビルボード・ホット・デジタルシングル100で初登場22位、ホット・デジタルチャート100で9位、ホット100で44位、カナダのホット・デジタルシングル・チャートで35位を記録した。同月、イタリアの音楽バラエティ番組『ティ・ラッショ・ウナ・カンツォーネ』に再び招かれ、特別ゲストとして出演した。 同年6月27日、彼にとって初めてとなる単独コンサート「シャリース:ザ・ジャーニー・ビギンズ」をSMXコンベーション・センターで行った。 ジェイクは2009年に2曲のクリスマスソングに参加した。1曲はデヴィッド・アーチュレッタのクリスマスアルバム『クリスマス・フロム・ザ・ハート』に収録されているアーチュレッタとのデュエット曲『ハブ・ユアセルフ・ア・メリー・リトル・クリスマス』である。もう1曲はコンピレーションアルバム『ベリー・スペシャル・クリスマス・ヴォリューム7』に収録されている『クリスマス・ソング』である。2009年秋にはライブ「デイヴィッド・フォスター・アンド・フレンド」の北アメリカ公演に同行した。 同年12月23日に北アメリカで公開された映画『アルビン 歌うシマリス3兄弟』にカメオ出演をした。同月、オーディション番組『シンガポールアイドル』のグランドフィナーレに出演し、『ノート・トゥ・ゴッド』を披露した。
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