アメリカへの移送と引き渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:47 UTC 版)
「アッツ島玉砕」の記事における「アメリカへの移送と引き渡し」の解説
戦後まもなく、戦争画を描いた画家の中で最も知名度が高く、軍部との密接な繋がりが知られていた上に声高な戦争画に関する言論を繰り広げていて、しかも描いた戦争画のインパクトも強かった藤田に対し、戦時中の言動に関する批判が集中する。 終戦時、『アッツ島玉砕』は岐阜県高山市で保管されていた。アメリカ戦争省は1945年10月末には、メトロポリタン美術館で開催を予定した日本征服展に日本の戦争画を展示すべく藤田らに戦争画蒐集を依頼した。藤田はアメリカ側からの依頼を快諾した。戦争画蒐集活動の一環として、1945年11月末に藤田は高山市で『アッツ島玉砕』を回収する。1945年12月の新聞報道によれば、藤田は自らが描いた戦争画が世界のひのき舞台に出ることを喜び、戦争画を描いたドラクロワと並べてみて更に勉強しなければならないと述べていた。藤田は『アッツ島玉砕』の署名を漢字と皇紀の「嗣治 2603」から、ローマ字と西暦の「T.Fujita 1943」と書き換えた。サインの書き換えについてはアメリカ等海外での公開に備えたものであるとの説が唱えられている。 しかしアメリカでの戦争画の展覧会は実現しなかった。『アッツ島玉砕』を始めとする蒐集された戦争画は東京都美術館に集められたが、1946年8月から9月にかけて占領軍関係者に公開された以外、保管されたままの状態が続いた。結局1951年7月26日、『アッツ島玉砕』始めとした戦争画は箱詰めにされた上でアメリカへ移送された。 やがて戦争画の返還を求める動きが始まった。日本側とアメリカ側との交渉の結果、アメリカ側の法的問題をクリアし、議会対応の必要性も無い上に、日本側の返還要求にも応えられる「無期限貸与」という形で戦争画を引き渡すことで合意した。アメリカ側から引き渡しを受けた戦争画は、1970年4月9日に東京国立近代美術館に収蔵された。こうして日本へ「無期限貸与」された戦争画は153点だった。
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