アメリカへの移住と活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 12:00 UTC 版)
「大塚太郎 (造園家)」の記事における「アメリカへの移住と活躍」の解説
大塚は1897年12月21日に鎌倉丸に乗って日本の神戸からワシントン州シアトル港に到着し、ワシントン州タコマにしばらく滞在。タコマでしばらく働いた後、彼は1900年7月に妻を米国に呼び寄せた。彼らは、おそらく1904年にセントルイス万国博覧会に出席した後、1905年頃にシカゴに引っ越した。 記録に残っているものから考察すると、1905年の直後にシカゴ地域でロックガーデンや日本庭園の建設を始めた。 T. R. Otsukaとして、1911年から1930年代初頭にかけて、『Country Life』、『House Beautiful』、『The Garden』などの全国的な園芸雑誌で、広く宣伝を展開していた。 クレイ・ランカスターの大塚についてコメント: The Midwest has participated less vigorously than the East Coast in the Japanese garden movement. T.R. Otsuka, mentioned earlier for advertising himself as a Chicago "Japanese Garden Constructor" in an 1911 magazine, four years later had changed his title to "Japanese Landscape Architect"; and from a practitioner in "Quaint Japanese Style," he had become adept in "All styles, with a specialty to harmonize American ground." During the interim he had learned that the hinterlands remained relatively provincial in the matter of accepting imported modes. —Clay Lancaster、The Japanese Influence in America (1963)、page 206 1911年から1916年まで、大塚の住所は、シカゴのグラントパークの向かいにあるサウスミシガンアベニュー414番地のファインアーツビルだった。 彼は中西部の州、フロリダ州、ニューヨーク州北部に数多くの庭園を建設した。 1910年以前から1930年頃まで、大塚はイリノイ州ダンディーの D. Hill Nurseryと協業していた。イリノイ州で最も古く、最大の常緑樹と低木の供給業者の1つであるナーサリーでは、石庭と日本式庭園の建設における大塚のスキルをカタログで紹介し、その見返りに大塚はここで造園に使う植木を購入していたとみられる。 1920年代初頭から、大塚はフロリダで冬を過ごし始め、1924年3月下旬にニューヨーク市に移住した。 大塚は、1933年のシカゴ万国博覧会で公式の日本庭園を担当した:212。教授ケンダル・H・ブラウンは、「日本のパビリオンには、小さな茶園のある茶室と、中西部に庭園を建設してきたシカゴ在住の日本人、大塚太郎によって建てられた前庭のあるメインパビリオンがあった」と紹介した。 大塚がいつどこで亡くなったのかは不明である。妻は1937年2月19日にフロリダ州マイアミで亡くなったことがわかっている。前述の上原は、「妻の死後、大塚氏は一人で日本に帰国し、その後中国に行ったが、その後、彼の居場所は消えた」と述べている:220。
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