アメリカへの帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:12 UTC 版)
「スパークス (バンド)」の記事における「アメリカへの帰還」の解説
1976年、メイル兄弟は故郷であるロサンゼルスに戻った。スパークスの音楽が飽きられはじめたのではという心配から、より「アメリカン」なサウンドに変更しようと、プロデューサーにルパート・ホルムス(Rupert Holmes)を迎えアルバム『ビッグ・ビート』を、翌1977年には(ホルムス抜きで)アルバム『イントロデューシング』をリリースした。どちらもスタジオ・ミュージシャンとのレコーディングだった。しかし、この新たなる「ウェストコースト」サウンドは失敗だった。「個性の喪失」 ととられたからだった。ところで1976年にスパークスは映画にも進出した。パニック映画『ジェット・ローラー・コースター(Rollercoaster)』で、出演を断ったキッスの後釜だった。 前2作の失敗で、兄弟は自分たちが「今何をすべきなのか」という境遇にいることに気づいた。1979年まで、2人はロック・バンドの形態を試行錯誤し、よりエレクトロニックな方向に向かうことにした。2人はディスコ・サウンドの象徴ともいえるドナ・サマーの『I Feel Love』のクリエイター、ジョルジオ・モロダーを尊敬していることをドイツ人ジャーナリストに打ち明けたところ、彼がモロダーの友人であることがわかった。その縁から、モロダーのプロデュースによるアルバム『No.1イン・ヘブン』(1979年)が完成した。このアルバムは「スパークス・サウンド」の見直しのみならず、バンドとは何かという概念に対するチャレンジでもあり、台頭してきたエレクトロ・ポップ・バンドに影響を与えた。続いて1980年にはアルバム『ターミナル・ジャイブ』を発表した。「When I'm With You」がフランスで大ヒットとなり、1年間アルバムのプロモーションでフランスに滞在した。この曲はオーストラリアでも全豪14位のヒットとなった。 新しいサウンドをツアーでやるには電子機器類はあまりに持ち運びにくいとわかったので、『弱い者いじめ』(1981年)、『パンツの中の用心棒(ゾウさんの悩み)』(1982年)、『イン・アウター・スペース』(1983年)といったアルバムでは伝統的なバンド形態に戻された。『イン・アウター・スペース』からシングル・カットした「クール・プレイス(Cool Places)」がビルボードHOT 100の49位のヒットとなった。このトラックはゴーゴーズのジェーン・ウィードリンとのコラボレーションで、ウィードリンは一時期自分でスパークスのファン・クラブを運営していたことがあり、またスパークスを地元のヒーローと讃えるロサンゼルスのラジオ局KROQ-FMもそのヒットに貢献した。
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