アメリカへの出発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 05:08 UTC 版)
「マルグリット・ユルスナール」の記事における「アメリカへの出発」の解説
1937年にロンドンにヴァージニア・ウルフを訪問、また当時イェール大学学生のアメリカ人女性グレース・フリックと知り合い、招待を受けてコネチカット州ニューヘイブンなど各地に滞在する。1938年にはカプリ島、ソレントで、第一次大戦の動乱期を背景とする『とどめの一撃』を執筆。1939年に再びアメリカに渡るが、第二次世界大戦勃発のために帰国できなくなり、その後11年間アメリカで暮らした。1940年にグレース・フリックがハートフォードの高校に勤め始め、マルグリットも無給でフランス語と美術史を教え、1942から1949年までサラ・ローレンス大学の非常勤講師として比較文学、フランス文学を教えた。1947年にはアメリカ市民権を獲得し、「マルグリット・ユルスナール」を本名とした。 1950年にメイン州マウント・デザート島(Mount Desert Island)に私有地と家屋を購入し、「プチット・プレザンス(Petite Plaisance)」と名付け、グレースとともに住む。この頃、戯曲の執筆、黒人霊歌や古代ギリシャ詩の翻訳も行った。1951年にグレースとともにフランスに帰り、1952年に、ローマ皇帝の個人的な回想の形をとった歴史小説『ハドリアヌス帝の回想』フェミナ・ヴァカレスコ賞を受賞して国際的名声が高まり、アカデミー・フランセーズによる文学賞も与えられた。 この頃プチット・プレザンスの他に、ドイツ、フランス、ベルギーなどを転々とし、冬はポルトガル、スペイン、カナリア諸島で過ごした。また、人権、平和擁護、核拡散反対、動物保護、公害防止など、多くの運動団体に参加した。旧作『死者が馬車を導く』の第一篇「デューラー風に」の改稿を始め、これがルネサンス期の医師、哲学者、錬金術師ゼノンの激動の生涯を描く『黒の過程』となり、1968年に刊行されてフェミナ賞を受賞、名声を不動のものとした。1970年にベルギー王立アカデミー会員に選出。1971年にレジオンドヌール勲章受章、1972年モナコ・ピエール大公文学賞受賞。1977年、全業績に対してアカデミー・フランセーズ文学大賞受賞、1980年には女性初のアカデミー・フランセーズ会員となった。
※この「アメリカへの出発」の解説は、「マルグリット・ユルスナール」の解説の一部です。
「アメリカへの出発」を含む「マルグリット・ユルスナール」の記事については、「マルグリット・ユルスナール」の概要を参照ください。
- アメリカへの出発のページへのリンク