メイフラワー号の航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 04:04 UTC 版)
「プリマス植民地」の記事における「メイフラワー号の航海」の解説
メイフラワー号はスピードウェル号と落ち合うためにイングランドのサウサンプトンに寄港し、物資や他の乗船客を乗せた。サウサンプトンで一行に加わった乗船客の中には、一年の大半を隠れて過ごしていたウィリアム・ブリュースターを含む数人のピルグリムと、ピルグリムにとっては「異邦人」と見られる一群の者達がいた。この後者の集団の大半はマーチャント・アドベンチャラーズの募集に応じた者であり植民地の統治を行うと共に、植民地を立ち上げるための付加的な働き手という位置付けだった。異邦人の中には植民地の軍事的指導者となるマイルス・スタンディッシュ、大西洋航海中の指揮者となるべくマーチャント・アドベンチャラーズに指名されていたクリストファー・マーチン、およびウィリアム・シェイクスピアの「テンペスト」のモデルにもなったと言われ、植民地経営に失敗した経験のあるステファン・ホプキンスがいた。 メイフラワー号とスピードウェル号のアメリカへの出発は更に遅れた。マーチャント・アドベンチャラーズとの考えの不一致でサウサンプトンでしばらく留まった。総人数120名の乗客は、メイフラワー号に90名、スピードウェル号に30名が分乗し、8月15日にやっと出航した。いざ、サウサンプトンを出港したものの、スピードウェル号に重大な水漏れが発生し、即座にダートマスに帰港する必要が生じた。修理が完了しても、今度は追い風を得られずにさらに遅れた。2隻の船はランズ・エンド岬を過ぎて200マイルも行かないうちに、またスピードウェル号に水漏れが発生して、イングランドへ後戻りを余儀なくされた。今回はプリマス港だった。スピードウェル号は航海に耐えられないと判断され、移民を諦めた者もいたが、残りはメイフラワー号に乗り移り、既に積載量の多かった船がさらに混雑することになった。後に、スピードウェル号の船長が当てにならない大西洋を越える航海を避けるために意図的に罷業したのだという風評が広まった。 メイフラワー号は102人の移民を乗せて、1620年9月6日にプリマスを出港した。僚船のスピードウェル号は無く、具体的にハドソン川河口に移住することを認める土地特許を持って新世界へ船出した。途中で強い西風に会いまたメキシコ湾流のせいもあって、航海は2ヶ月を要した。11月9日、ケープコッドの海岸沖で陸地を発見した。メイフラワー号は指定されたハドソン川河口の場所に上陸するために南に向かおうとしたが、ケープコッドとナンタケット島の間の浅瀬、ポーラックリップ海域で障害が起こった。冬に向かおうとしている時期であり、食料も危険なまでに底を突いた状況だったので、乗船客は北へ戻り、当初の上陸計画を棄てることにした。
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