アメリカへの傾斜と抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 04:19 UTC 版)
「ハワイ併合」の記事における「アメリカへの傾斜と抵抗」の解説
王権復古と「異教復活」を掲げた新王ロト・カメハメハ(カメハメハ5世)は、1864年8月、新しいハワイ王国憲法(英語版)を公布した。歴代王の親英政策により、ハワイ王国がイギリスに傾斜することを怖れたアメリカ合衆国は、秘密裏にハワイ王国の併合計画をすすめた。 この間、かつての捕鯨業は衰退に向かい、製糖業が発展に向かった。特に1860年代は、南北戦争で大打撃を受けたアメリカ本土に代わってハワイ諸島においてサトウキビ栽培が大いに拡大した時期であった。しかし、一方で白人が持ち込んだ感染症のために先住ハワイ人(ポリネシア人)の人口が激減し、サトウキビ農場での労働力不足を補うため、中国系ないし日系の移民が多数ハワイに流入した。1871年(明治4年)8月には日本との間に日布修好通商条約が締結されている。 1872年、次の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが急死した。王位の決定は議会に委ねられ、選挙により親米派のルナリロが王位継承者となって、翌1873年1月、即位した。ルナリロはアメリカ人を閣僚にすえ、アメリカからの政治的・経済的援助を求める政策を採用した。アメリカとの間に互恵条約を結ぶことを目標にして外交交渉もなされたが、ルナリロが肺結核とアルコール依存症によって没したため、王位は再び議会に委ねられた。候補者のひとりが故カメハメハ4世アレクサンダー・リホリホの王妃エマであり、もうひとりは、ハワイを統一したカメハメハ1世(大王)の有力な助言者だった大宮司ケイアウェアヘウル(英語版)の子孫にあたるデイヴィッド・カラカウアであった。エマ王妃とカラカウアが「国王選挙」で争った結果、カラカウアが当選、1874年2月13日に即位した。 カラカウアは、王位を継承してすぐに自分の後継者として弟のレレイオホクを指名して国王選挙の前例が繰り返さないよう手をうち、1874年中にハワイ国王として最初にアメリカ本土を訪れ、貿易関税撤廃相互条約(米布互恵条約(英語版)を締結した。これによりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカ合衆国本土への輸出が可能となったが、第4条に「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾斜に拍車がかかることとなった。いっぽう、製糖業を支える外国人をハワイ王国の市民として受け入れる政策をとり、これは製糖業を独占していたアメリカ人商人には不評であった。カラカウアはウォルター・マリー・ギブスン(英語版)という人物を政治顧問とし、内閣を指導させた。 カラカウアは、1879年にホノルルでイオラニ宮殿の建設に着手し、1881年、幼なじみの白人ウィリアム・N・アームストロング(英語版)らを伴って「おしのび」での世界一周旅行をおこなった。カラカウアの世界一周はサンフランシスコにはじまって日本、中国、シャム、シンガポール、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、フランス、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、スペイン、ポルトガルとつづいた約10か月の旅であった。その理由は移民の促進交渉と表敬訪問、そして各国の王室を見学することであった。日本では明治天皇に会見し、日本人のハワイ移民促進を要請するとともに、王の姪で王位継承者のカイウラニ王女と皇族のひとり山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)の縁談をもちかけた。 米布互恵条約の有効期限が近づいた1883年、アメリカでは互恵条約は合衆国内のコメや砂糖の生産者の利益を損なうとの批判があり、その失効を主張する声もあったが、ジョン・タイラー・モーガン(英語版)上院議員ら帝国主義者によって「その他の、より高次元な益がある」とする更改賛成意見が反対意見を上まわり、従前よりモーガンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件に1887年11月に条約の更新がなされた。カラカウア王自身はアメリカに真珠湾の独占使用権をあたえることに反対であり、王の妹リリウオカラニも反対したが、アメリカ上院の姿勢は強硬であり、トーマス・H・カーターらの働きかけもあって、7年という期限付きでの独占使用を認めた。ハワイではカラカウアを「アメリカに国益を売りわたす王」として批判も多かったが、カラカウアは砂糖産業の安定こそがハワイの繁栄を保障するという判断にもとづいていたのではないかとする見解がある。 1887年、ハワイ王国の野党議員ロリン・A・サーストンが中心となって急進的な改革を志向する秘密結社ハワイアンリーグ(英語版)が結成された。同年6月30日、ハワイアンリーグはハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズ(英語版)と協力して、首相ウォルター・ギブスンの退陣と新憲法の採択を王に対して要求した。これに対し、カラカウア王はかつて自ら組閣した内閣を解散することで抵抗した。ギブスンは国外退去に処された。 その後、ハワイアンリーグは、ホノルルライフルズなどが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させた。それが1887年7月に採択された、1887年憲法(英語版)(通称「ベイオネット憲法」)である。「ベイオネット」とは「銃剣」を意味し、威嚇のもとに強制的に調印された憲法であった。この憲法はすべてのアジア系移民から一切の投票権を奪い、かつ、投票権の有資格者として収入や資産などの一定の基準を設けたため、大多数の先住ハワイ人とごく少数の欧米人から成る貧しい人びとは選挙権を剥奪され、ごく少数のハワイ人エリートや富裕な欧米系住民の発言力が飛躍的に高まった。また、王権は制限され、枢密院や内閣は強い影響力をもつようになった。カラカウアはベイオネット憲法の廃案を画策し、1889年には混血ハワイ人で王国の軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックス(英語版)らの抵抗もあったが失敗に終わった。1891年1月20日、カラカウアは志半ばで保養先のサンフランシスコで死去した。 この間、アメリカ本国では1890年に連邦議会が新たに関税法案を通過させたため、ハワイの製糖業は大打撃を受けた。ハワイから輸入した砂糖は無関税であったが、アメリカ国内で生産された砂糖には奨励金がつけられたため、ハワイの砂糖生産はふるわなくなり、サトウキビ農園の地価も暴落し農園労働者の賃金も低下、さらには失業者もあらわれた。こうして、あらゆるものが砂糖に依存していたハワイ経済は深刻な不況に陥った。とりわけ、農園を所有して製糖業を経営していた者の多くがアメリカ人であったため、本国の関税法案通過に対して不満をつのらせ、アメリカの保護領となるか、編入してもらうかして事態を解決するよりほかに道はないと考えるようになった。 1891年1月、カラカウアの後任としてその妹リリウオカラニが王位に就いた。しかし、リリウオカラニの指名した閣僚は再三にわたり入閣を拒否して内閣が機能しないという事態に陥った。1892年11月、ようやく組閣のための閣僚承認がなされて政治危機を脱した。 リリウオカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制とする政策を打ち出したが、これに対しては、アメリカ系白人勢力より道徳的見地からの批判が噴出した。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王党派ハワイ人たちは、1864年の憲法をもとにして女王に多くの権力を集中させる新憲法制定を計画して親米派に対抗しようとした。こうした動きに危機感を覚えたアメリカの駐ハワイ公使ジョン・L・スティーブンス(英語版)はロリン・サーストンやサンフォード・ドールらと接触し、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立を計画した。 1892年春、親米派は「併合クラブ」と称する秘密結社をつくった。中心メンバーは、サンフォード・ドール、ロリン・サーストン、W.R.カースル、S.M.デーモンであった。
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