アメリカへ渡る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 20:38 UTC 版)
「エリエル・サーリネン」の記事における「アメリカへ渡る」の解説
トリビューン・タワー設計を機に翌1923年、家族を伴ってアメリカに移住し、ミシガン州を拠点に設計・教育活動を続けた。在米2年目にはミシガン大学の招聘教授の座を受託する。 1925年、ミシガン州の大手地方紙社主で芸術愛好家でもあったジョージ・ゴフ・ブース(George Gough Booth)は、かねて構想していたアメリカ版バウハウスとなるべき学校群のキャンパスの設計をサーリネンに依頼した。そのクランブルック教育コミュニティ(Cranbrook Educational Community)を手がけたサーリネンは同所に美術アカデミーが開学すると教職を得て、1932年には校長に任じられた。同学からチャールズ・イームズやレイ・イームズ(当時はカイザー姓)などの優れたデザイナーや芸術家が生まれた。サーリネンはのちにイームズ夫妻と仕事で組んでおり、家具デザインに大きな影響を与えた。クランブルックではサーリネンの妻も織物や染色を教え、スカンジナビア・デザインの染織工房を構えてサーリネンの建築物の内装に参加する。 ミシガン大学(アナーバー校舎)の建築学部教授にもなっており、教え子のひとりエドモンド・N・ベーコンは、1949年から1970年にかけてフィラデルフィアの都市計画総合プロデューサーを委嘱され、高い評価を得ている。渡米後まもない時期に招聘を受けて来学して以来、長年にわたるその貢献を記念し、今日、同学のタウブマン建築・都市計画学部は客員教授プログラムにサーリネンの名を冠している。 息子のエーロ・サーリネン(1910年-1961年)は20世紀半ば(ミッド・センチュリー)のアメリカを代表する建築家となり、父子共作もある。
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