スペイン内戦
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スペイン内戦(スペインないせん、スペイン語:Guerra Civil Española、英語:Spanish Civil War)は、1936年から1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の共和国人民戦線政府(ロイヤリスト派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、欧米市民文化人・知識人らも数多く義勇兵(国際旅団)として参戦、フランコをファシズム陣営のドイツ、イタリア、ポルトガルが支持・直接参戦した。
注釈
- ^ ただし1937年には人民戦線側に三十一年式速射砲を売却するなど、明確にフランコ側だったわけではない。
- ^ どちらかというと地中海よりの国土の東半分。
- ^ 反乱軍を支援するポルトガルと国境を接する西側の地域。
- ^ 創設者のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラ侯爵は人民戦線側に捕らえられ処刑された。
- ^ 共和国側は死傷2500人以上と、被害を過大に発表。当時は爆撃の真相は不明で、人民戦線軍による焦土作戦と言うフランコ側の主張もかなり信じられていた。これ以前から民間人に対する無差別爆撃は双方により行われており、バルセロナなどではより多数の死傷者が発生していたのだが、パブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』の題材になったことで、一躍有名になった。
- ^ 実際には、これ以前にもこの後も、フランコ軍は平然と教会に対する砲爆撃を行っている。特にバスクとカタルーニャでは聖職者を殺害することも躊躇しなかった。
出典
- ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、p.125
- ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、pp.110-111
- ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、pp.103-105
- ^ 総選挙で人民戦線派が勝利『東京朝日新聞』昭和11年2月18日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、p.108
- ^ 総選挙で人民戦線派が勝利『東京朝日新聞』昭和11年2月18日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306)
- ^ スペイン政府、英仏に援助を懇請『大阪毎日新聞』昭和11年7月25日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p307 )
- ^ フランコが総統に就任、政府政綱を宣言『大阪毎日新聞』昭和11年10月4日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306)
- ^ 反乱軍がマドリッドに突入『大阪毎日新聞』昭和11年11月8日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p308)
- ^ カバレロ首相ら政府首脳、首都に帰る『大阪毎日新聞』昭和11年11月15日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p309)
- ^ バーネット・ボロテン『スペイン内戦 革命と反革命』上巻、p227
- ^ ボロテン、同書上巻、p239
- ^ 三野正洋「スペイン戦争」朝日ソノラマ文庫
- ^ マドリッドもついに陥落『東京朝日新聞』昭和14年3月29日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p298)
- ^ フランコ政府、内戦終結宣言『東京日日新聞』昭和14年3月30日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p298)
- ^ 英国がフランコ政権を正式承認『東京朝日新聞』昭和14年2月28日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p298)
- ^ 米国も承認『東京朝日新聞』昭和14年4月3日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p298)
- ^ 三野正洋「スペイン戦争」
- ^ ジルラルタル沖で初の海戦『大阪毎日新聞』昭和11年10月11日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p308)
- ^ 独伊両国、フランコ政権を承認『東京朝日新聞』昭和11年11月20日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p309)
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