サラザールの独裁
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「ポルトガルの歴史」の記事における「サラザールの独裁」の解説
1932年7月にサラザールは首相に就任し、ポルトガルの体制は軍事政権から文民政治に移行する。また、同年にイギリスに亡命したマヌエル2世が後継者を残さず没したため、王政復古への道が閉ざされた。翌1933年にコルポラティヴィズモ(協調主義)に基づく新憲法が公布され、新国家(エスタド・ノヴォ)体制が確立された。新憲法の下では国民投票で選出された大統領は立憲王政期の国王に比肩する権限を有していたがその立場は不安定なものであり、首相であるサラザールが実権を握っていた。 1936年のスペイン内乱ではサラザールはスペイン人民戦線の勝利を危惧し、スペイン共和国と断交してフランシスコ・フランコの反乱軍を支援した。スペイン内乱の後にサラザールは首相、蔵相、国防相、外相を兼任して権力を集中させ、ファシスト的団体であるポルトガル軍団とポルトガル青年団を結成させて体制の維持を図った。1938年4月にサラザールはフランコの政権を承認し、翌1939年にポルトガルはスペインと相互不可侵条約を締結した(イベリア同盟)。 第二次世界大戦では中立を宣言した。枢軸国の側に立てばポルトガルの植民地はイギリスの攻撃を受けることとなるし、連合国側に立てば、ポルトガル本土が危険に晒されるという判断からだった。また、ドイツはポルトガルへの侵攻計画(イサベラ作戦)を立てていたが、実行はされなかった。1940年にポルトガルと教皇庁が協定を結んだことで国内の教会の権威が回復され、軍部、地主、資産家・銀行、教会を地盤とするサラザールの独裁体制が確立される。同年にサラザールは自らの権威を示すためにポルトガル建国800周年、再独立300周年を記念するポルトガル世界博覧会を開催した。戦時中であることもあり、参加したのはポルトガルとその植民地だけであったが、ナショナリズムの高揚に利用した。1941年の独ソ戦勃発に伴い隣国スペインが青師団を派遣した際には、ごく少数のポルトガル青年団員が義勇兵として参加している。太平洋戦争では、中立であるにもかかわらず、自国領である東ティモールがオーストラリア軍によって占領され、サラザールはこれに厳重に抗議したが、その直後に日本軍がさらに同地を占領した。占領期間中、ポルトガル軍と日本軍の関係は平穏であった。 大戦中はタングステンなどの希少な軍需物資を連合国と枢軸国の双方に輸出することで、経済的にも政治的にも安定を保った(枢軸国への輸出は主にスイスを経由した)。連合国の勢いが盛り返してきた1943年からアゾレス諸島のテルセイラ島を基地として英米に提供するなどした。また、ポルトガルは大戦中にはヨーロッパからアメリカへの最後の脱出口となり、多くの亡命者の避難所となった。 第二次世界大戦後もサラザールの独裁体制は存続し、1960年まで政治活動の禁止、新聞の検閲、秘密警察による監視によって体制は維持される。リスボンやポルトで体制の変革、民主主義への転換を求めるデモが起きるが、民衆の要求に対してサラザールは意見を表明しなかった。ポルトガルは大戦で最終的に連合国に便宜を図ったことと、東西冷戦の中で反共勢力の一員となっていたために、サラザールの独裁体制は国際社会から承認され、北大西洋条約機構(NATO)、国際連合、欧州自由貿易連合(EFTA)への加入を認められた。1950年代末からの世界規模の政治変革の流れの中でポルトガルはなおも孤立を維持し続けたため、工業労働者と農民は低水準の生活を強いられていた。低賃金と弾圧に苦しむポルトガル本国と植民地の民衆だけでなく、拡大のために機構の改革を要求する独占的大企業、それらの独占的大企業に圧迫されていた中小企業もサラザール体制打倒の一因を担うことになる。1958年の大統領選挙で反サラザールの旗頭となったウンベルト・デルガードの敗退は民主化運動、ポルトガル国民のサラザール政権への不信感を促進する。反対勢力の拡大を危惧したサラザールは1961年に大統領選挙を間接選挙に変更し、反体制運動をより厳しく取り締まった。 1950年にポルトガルは中華人民共和国と協定を締結してマカオを準植民地とし、マカオは金融業とギャンブルによって繁栄する。独立したインドはポルトガル領のゴアの返還を要求して領内に侵攻、ポルトガル政府はインド側の要求を拒むが、現地の駐留部隊はすぐさまインド軍に降伏し、1961年にインドのポルトガル植民地は消滅する。
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