立憲王政期(1951年 - 2008年)
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「ゴルカ朝」の記事における「立憲王政期(1951年 - 2008年)」の解説
ゴルカ朝がその実権を取り戻したのは1951年、トリブバン国王のときのことである。亡命先から帰国したのち、初めて立憲君主制を採用した。 1959年、マヘンドラ国王は憲法を公布してネパール初の総選挙を実施。選挙の結果ネパール会議派が大勝し、ビシュエシュワル・プラサード・コイララ内閣が誕生する。しかし、改革を進めようとする内閣と、権力を維持したい国王は次第に対立を深め、1960年、マヘンドラ国王は憲法を停止して内閣・議会を解散、コイララ首相ら政党指導者を逮捕した(国王のクーデター)。 1962年、マヘンドラ国王は政党の禁止などを定めた新憲法を公布。パンチャーヤト制と呼ばれる国王にきわめて有利な間接民主制が行われた。また、首相の任免は国王が行った。 マヘンドラ国王は、1972年1月31日に死去した。同日、マヘンドラ国王の長男のビレンドラが跡を継ぎ、国王に即位する。 1990年、民主化運動であるジャナ・アンドランの高まりに押されて、ビレンドラ国王は民主的憲法を制定し、直接選挙による国会、国会から選ばれる内閣を復活する。この事により、ビレンドラは開明的君主として、国民の厚い信頼を得た。 2001年6月1日、ネパール王族殺害事件により、ビレンドラ国王はじめ多くのシャハ王家の構成員が死亡した。昏睡状態のディペンドラ皇太子が数日間王位についたが死亡し、叔父のギャネンドラが即位(重祚)した。 2005年2月、ギャネンドラ国王は議会を解散し、政府の実権を掌握する。ギャネンドラ国王の親政はロクタントラ・アンドランによって2006年4月に終わり、ネパールの君主制と、ゴルカ朝の命運はネパール制憲議会に委ねられることが決まった。2007年12月24日、王制は制憲議会開会とともに廃止されると発表された。 2008年5月28日、制憲議会の第一回会議で「連邦共和制」が宣言され、ゴルカ朝は終焉した。
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