立憲派から政学系へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 00:14 UTC 版)
祖父は蘇州知府、叔父は陝西学政使、父は候補知県という地方官吏の家庭に生まれる。沈鈞儒は幼年で旧学に親しんだが、後に変法派の思想へ傾いた。1900年(光緒26年)、父が死去したため西安に赴き、叔父の下で文書係を務めた。1903年(光緒29年)、挙人となり、翌年、進士となっている。 その後、沈鈞儒は日本に留学し、1905年(光緒31年)9月、法政大学法政速成科で学ぶ。留学期間中にさらに立憲派としての姿勢を強めた。1907年(光緒33年)に帰国すると、浙江省咨議局副議長、浙江両級師範学堂監督などを歴任し、立憲運動を展開している。しかし、次第に清朝の無能・腐敗を改めることは不可能であると認識し、沈は革命派へと転向する。 辛亥革命勃発後、沈鈞儒は革命派の浙江省都督府で警察局長に任ぜられる。1912年(民国元年)5月、中国同盟会に加入し、8月には柳亜子らと南社を創設した。その後、浙江省教育司司長、参議院議員を歴任し、袁世凱が皇帝即位を目論んだときには反対運動を展開している。袁死後の1916年(民国5年)、北京政府司法部の秘書に任ぜられ、政学系の一員と目された。 孫文(孫中山)が護法運動を開始すると沈鈞儒は広州に向かってこれに加わり、軍政府総検察庁検察長に起用されている。しかし沈を含む政学系は次第に孫と対立した。1921年(民国10年)、沈は上海で政学系の機関紙『中華新報』の主筆を務めている。政学系が広州軍政府内での政争に敗北すると、沈も北京に戻り、参議院秘書長となった。しかし、曹錕が賄選により大総統となろうとすると、沈は賄賂を拒否して下野している。その後、浙江省で自治運動を展開した。
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