立憲民政党綱領問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
日本初の普通選挙を控えて、1927年6月、立憲民政党が創立される。創立趣意書に「国体の精華にかんがみ一君万民の大義を体し国民の総意によりて責任政治の徹底を期するものである」と述べ、党の政綱に「国民の総意を帝国議会に反映し、天皇統治の下議会中心政治を微底せしむべし」と宣言する。時の政権は、同党と対立する立憲政友会の田中義一内閣である。翌年2月に初の普通選挙が行われる際、同内閣の内務大臣鈴木喜三郎は、投票前日に声明書を発表し、立憲民政党の政綱について「議会中心主義などという思想は民主主義の潮流にさおさした英米流のものであって、我が国体とは相容れない。畢竟かくのごとき思想は主権は一に天皇にありとの大義を紊乱し、帝国憲法の大精神を蹂躙するものであって断じて許すべからざるものである」と批判する。しかしこの声明書は逆に鈴木内相への不信任の雰囲気を強める。新聞には、民政党が国体に反するというなら何ゆえ治安警察法で解散させないのかと指摘され、貴族院からは皇室を政争の具にするものとして非難される。選挙後の帝国議会において、鈴木内相は過度の選挙干渉を責められて辞職に追い込まれる。
※この「立憲民政党綱領問題」の解説は、「国体」の解説の一部です。
「立憲民政党綱領問題」を含む「国体」の記事については、「国体」の概要を参照ください。
- 立憲民政党綱領問題のページへのリンク