立憲民主党員から国会副議長へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:32 UTC 版)
「ニコライ・ネクラーソフ (政治家)」の記事における「立憲民主党員から国会副議長へ」の解説
1879年、聖職者の家に生まれた。鉄道技術大学で学び、のちにトムスク工業大学の教授となる。 1905年に立憲民主党(カデット)の結党に加わり、その後、同党の中央委員を務めた。一方で、彼はフリーメイソンのメンバーであり、同じフリーメーソンのアレクサンドル・コノヴァーロフ(英語版)、ミハイル・テレシチェンコ、そしてアレクサンドル・ケレンスキーとは特別なつながりがあった。1915年には、政府とより積極的に対決すべきだとして党の方針に異議を唱え、党中央委員を辞している。 第3国会、第4国会で議員を務め、また、第4国会では副議長でもあった。1917年の2月革命時には国会臨時委員会の代表として、君主制を放棄すべきだと判断した。
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