第12の哨戒 1944年12月 - 1945年1月
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「シードラゴン (潜水艦)」の記事における「第12の哨戒 1944年12月 - 1945年1月」の解説
12月3日、シードラゴンは12回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。この哨戒では敵船の探索と救助艦任務の2つで成り立っていた。1945年1月までは敵船の探索を、1月10日以降は救助艦任務がメインとなった。シードラゴンは1月19日に哨戒海域を去り、1月22日にグアムに寄港後、翌日には真珠湾へ向かった。2月2日、シードラゴンは60日間の行動を終えて真珠湾に帰投。これがシードラゴンの最後の哨戒となった。
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第12の哨戒 1944年12月 - 1945年1月
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「グリーンリング (潜水艦)」の記事における「第12の哨戒 1944年12月 - 1945年1月」の解説
12月26日、グリーンリングは12回目の哨戒で日本近海に向かった。1945年1月25日朝、グリーンリングは北緯29度27分 東経130度09分 / 北緯29.450度 東経130.150度 / 29.450; 130.150の奄美大島近海で9隻の輸送船団と遭遇するが、爆雷攻撃を受けた。深度90メートルに避退していたグリーンリングは、爆雷の爆発の衝撃で108メートルに押し下げられ、耐圧船殻にいくつかのくぼみが出来てしまった。さらに、魚雷発射管の中に装てんしてあった魚雷のうち5本が爆発のショックで誤作動を起こし、またジャイロコンパスも破壊され中の水銀が流出してしまった。グリーンリングは4時間に及ぶ爆雷攻撃の後にどうにか戦場を離脱した。グリーンリングは後部を中心にダメージを受けたため、1月27日に修理のためサイパン島に針路を向けた。1月30日にサイパン島に入港したグリーンリングは、調査の結果アメリカへの帰国が決定した。グリーンリングはサイパン島を出港し真珠湾に向かった。2月10日、グリーンリングは45日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。グリーンリングはサンフランシスコ、パナマ運河地帯を経由し、ニューハンプシャー州ポーツマスに帰還。ポーツマス海軍造船所での修理の後、1946年10月16日にコネチカット州ニューロンドンで退役した。 グリーンリングに対する一連の攻撃に関しては、艦船研究家の木俣滋郎は、攻撃したのは第22号海防艦、水雷艇真鶴、第15号掃海艇と特設掃海艇第三号太平丸(西日本汽船、197トン)のいずれかとしている。第22号海防艦はこの当時、沖縄に配備される特攻艇「震洋」を輸送中の特設砲艦長白山丸(朝鮮郵船、2,131トン)を第58号駆潜艇とともに護衛中であり、真鶴、第15号掃海艇と第三号太平丸も鹿児島発の沖縄向け船団を護衛中であった。第22号海防艦が対潜攻撃を実施したのは1月21日の7時40分から10時30分と記録されており、攻撃地点は北緯29度01分 東経126度24分 / 北緯29.017度 東経126.400度 / 29.017; 126.400であった。また、攻撃日当夜には、4235キロサイクルで交信している潜水艦同士の対話も傍受している。この攻撃記録とアメリカ側の記録には大きな相違があり、真鶴と第15号掃海艇、第三号太平丸、あるいは近在の大島防備隊の所属艦艇が対潜掃討を実施したかどうかは、前者に関しては資料を欠き定かではなく、大島防備隊の動きについては、1月25日の項目に特段の記事はない。
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