ウィリアム・セボルド(二重スパイ)
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「デュケインのスパイ網」の記事における「ウィリアム・セボルド(二重スパイ)」の解説
ウィリアム・G・セボルド(英語版)(William G. Sebold)はドイツ生まれで、第一次世界大戦中にはドイツ帝国陸軍の一員として出征している。1921年にドイツを離れた後、彼はアメリカ及び南米の航空機工場などに勤務した。1936年2月10日、アメリカ合衆国の市民権を取得した。 1939年、セボルドは母を尋ねるべく故郷ミュールハイムに帰郷した。その道中にハンブルクを訪れた折、ゲシュタポのエージェントによる最初の接触を受けたとされている。1939年9月、ガスナー博士(Dr. Gassner)を名乗る男がミュールハイムの実家に滞在していたセボルドの元へ現れ、アメリカにおける軍用機や軍用装備に関する聴取を行うと共に、アメリカへの帰国後もドイツ側のエージェントとして働かないかと持ちかけたのである。その後、ガスナー博士に加えてレンケン博士(Dr. Renken)を名乗る男もセボルドの元を訪問しており、彼らとの話し合いを経て、セボルドは米独の関係悪化後もセボルドの家族が保護される事を条件にドイツ側のエージェントとなったのである。なお、後に明らかになったところによれば、レンケン博士の正体は国防軍情報部対英米諜報活動担当将校ニコラウス・リッター少佐であったという。 ガスナー博士による最初の訪問を受けた直後、セボルドは紛失を理由にケルンの米国領事館にてパスポートの再発行を申請している。この際、彼はドイツ側諜報部員が自分に協力を持ちかけてきたことを領事館員に明かし、帰国後FBIへの協力を行いたい旨を申し出たのである。 セボルドはハンブルクにて、ドイツ側諜報機関によって暗号文やマイクロフィルムの取り扱いなど諜報の基礎に関する講義を受けた。講義及び訓練の終了後、彼はアメリカ本土からドイツへどのような情報を伝えるべきかなどの指示を含む5つのマイクロフィルムを与えられた。セボルドはまた、その内3つを米国内で活動中のエージェント3名に与えよとの命令を受けた。彼はハリー・ソーヤーの偽名を用いてイタリア・ジェノヴァから出港し、1940年2月8日にニューヨークへ到着した。この段階でFBIはセボルドの帰国予定と彼が協力を望んだ事、そして彼がドイツ側スパイとして負った任務に関する報告を受けていた。 帰国したセボルドはドイツ側エージェントの手引きによって、ハリー・ソーヤーとしてニューヨークに住所を得て、ディーゼルエンジン技師として事務所を設置した。この事務所はドイツ側スパイ同士が接触を図る為の秘密拠点の1つとして使用され、FBIは周囲にエージェントを配置して事務所を監視下に置いた。 1940年5月、ロングアイランドに設けられたFBI管轄下の短波ラジオ送信局はドイツ国内の短波ラジオ局とのコンタクトを確立した。この送信局は以後16ヶ月の間、ドイツ本国とニューヨーク市内のドイツ側スパイを結ぶ主要な手段として機能した。最終的にFBIのラジオは300以上のメッセージを送信し、またドイツ本国から200のメッセージを受信したという。 事件後、セボルドは新しい身分を与えられ、カリフォルニア州にて養鶏業を営んだ。 1943年、Alan Hyndの書籍『Passport to Treason: The Inside Story of Spies in America』において二重スパイたるセボルドが初めて紹介された。
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