ウィリアムズ対ベネトン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:26 UTC 版)
「1995年のF1世界選手権」の記事における「ウィリアムズ対ベネトン」の解説
ベネトンは前年中盤にチーム代表のフラビオ・ブリアトーレがリジェチームを買収。ベネトンへのルノーエンジンの供給を引き出すことに成功し、このシーズンからライバルであるウィリアムズが使用しているのと同じエンジンとなった。ドライバーはミハエル・シューマッハと前年の日本GPからチームに加わったジョニー・ハーバートのコンビとなっている。この年の新車B195は開幕直後はフォードZETEC-Rエンジンからルノーエンジンに変更した影響もあって、ドライバビリティの安定性を欠いた面を見せていたものの、すぐさま大改良を施して第4戦スペインGPではシューマッハが優勝しハーバートが2位となるワンツーフィニッシュを達成。以後は予選こそウィリアムズ勢に先を越されることが多かったものの、高い信頼性と前年に引き続いてのピット戦略を武器にシューマッハは勝利を重ね、1992年のナイジェル・マンセルに並ぶ17戦中9勝(1992年は年間16戦中9勝)を記録し、第15戦パシフィックGPにてシューマッハが優勝し、ヒルが3位に終わったことで、シューマッハのタイトル獲得の条件を満たし、ドライバーズタイトルの連覇を達成している。 また、前年日本GPからチームに加入したジョニー・ハーバートは、シューマッハとヒルが共倒れとなった地元イギリスGPにてF1初優勝を遂げると、同じく共倒れとなったイタリアGPでも優勝する活躍を見せ、ドライバーズランキングでも4位に入り、ベネトンのコンストラクターズ初タイトルに大きく貢献した。タイトル獲得の一方でシーズン中の8月10日に、フィアットの会長からシューマッハの翌シーズンのフェラーリ移籍が発表されるという事態が起こっている。また、チームのタイトル獲得に貢献したハーバートも、シューマッハによる絶対的なナンバーワン体制を構築したベネトンチームに対して不満を示し、移籍を希望することとなり、結局ザウバーへと移籍することになった。 一方でウィリアムズは、デイモン・ヒルと前年セナ亡き後にデビューしたデビッド・クルサードがレギュラードライバーとして起用された。この年のウィリアムズ・FW17はPP(ポールポジション)の獲得数でベネトンを上回るなど予選ではベネトンを上回っていたが、決勝ではマシントラブルが原因のリタイアによる失点、チームとしてピット戦略で敗れ、決勝の方で後手にまわる結果となった。それでも、ヒルがこの年もシューマッハのライバルとなったが、シューマッハを脅かす活躍はできず、様々なノーポイントの要因も重なり、シューマッハの戴冠となっている。一方、フル参戦初年度となったクルサードは、第2戦アルゼンチンGPにてキャリア初PPも含めシーズン4度のPPを獲得したものの、子細なドライビングミスやマシントラブルの影響で計8回のリタイアを数え、優勝は第13戦ポルトガルGPでの初優勝1回に留まっている。ウィリアムズは結果として12PPを獲得したが、優勝は5勝(ヒル4勝、クルサード1勝)に留まり、コンストラクターズ4連覇を逃してしまった。翌シーズンに向けては、第13戦ポルトガルGPを前にした9月20日、往年のF1ドライバーのジル・ヴィルヌーヴの息子であり、1995年のアメリカインディ選手権にてチャンピオンになったばかりのジャック・ヴィルヌーヴが1996年にウィリアムズへ加入することが発表された。
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