ウィリアムズ在籍時代(1994年 - 1995年)
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「デビッド・クルサード」の記事における「ウィリアムズ在籍時代(1994年 - 1995年)」の解説
1994年にはウィリアムズのテストドライバーとなる。同年ナンバー1ドライバーのアイルトン・セナが第3戦サンマリノGPで事故死し、その代役としてクルサードが選ばれた。クルサードはデビューレースである第5戦スペインGPから第13戦ポルトガルGPまで(第7戦フランスGPは欠場)の8戦に参戦し、ポルトガルGPでは2位を獲得するなど初年度から活躍した。しかしF1人気低下を懸念していたバーニー・エクレストンやコンストラクターズタイトルを死守したいウィリアムズチーム側の意向により、第7戦フランスGPと第14戦ヨーロッパGP以降のシーズン最終3戦のシートは、1992年ワールドチャンピオンのナイジェル・マンセルに譲ることになった。 そのような不安定な環境を嫌い、クルサードはシーズン終盤に1995年のマクラーレン入りを画策する。しかし所属チームのウィリアムズが提訴をし、裁判の末ウィリアムズ残留が決定、1995年もウィリアムズで戦うことになる。シーズン序盤からチームメイトのデイモン・ヒルを凌ぐ速さを見せていた。シーズン後半、第12戦イタリアGPから4戦連続でポールポジションを獲得し速さを見せつけ、第13戦ポルトガルGPでは初優勝を果たしたものの、同時に、イタリアGPでポールポジションからのスタートながらフォーメーションラップでスピンアウト(赤旗再スタートで復活もブレーキトラブルでリタイア)を喫したのをはじめに、第16戦日本GPでのコースオフ後のブレーキングで自分で拾った砂利に乗ってのスピンアウト(サイドポンツーンに入りこんだ砂利が、ブレーキング時に排出)、最終戦オーストラリアGPでのトップ快走中に、ピットレーン進入時のスピードリミッターの不具合が原因でのクラッシュなど、終盤はつまらないミスを立て続けに犯していた。シーズン終了をもってウィリアムズとの契約期間が切れたため、1996年は満を持してマクラーレンに移籍した。
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