ウィリアムズポートへの追跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:46 UTC 版)
「ゲティスバーグからの撤退」の記事における「ウィリアムズポートへの追跡」の解説
ゲティスバーグを別にすれば、この方面作戦でヘイガーズタウンの戦いが最も流血の多い戦闘となった。両軍は250名以上の損失を出した。そのうちの大半は両軍の騎兵であり、歩兵の「死んだ騎兵のことを聞いた者がいるかい?」という嘲笑とは食い違っている。 Ted Alexander, Washington Times ミードの歩兵部隊が熱心にリー軍を追跡するようになる前に、ビュフォードの騎兵師団がフレデリックから出発してポトマック川を渡る前のインボーデンの輜重隊を破壊しようとした。南軍の撤退路でヘイガーズタウンは重要な地点であり、そこを抑えることは川を渡る浅瀬への接近を妨害するか遅らせる可能性があった。7月6日、キルパトリック師団はモンテレー・パスでの襲撃に成功した後で、ヘイガーズタウンに向かいチャンブリスとロバートソンの小さな2個旅団を追い出した。しかし、アルフレッド・アイバーソン准将の歩兵隊がキルパトリックの部隊を町から後退させた。スチュアートの残っていた旅団がやってきて、フッド師団の2個旅団に補強され、ヘイガーズタウンは南軍が占領した。 ビュフォードはキルパトリック部隊の砲声を近くに聞き、その右翼への支援を要請した。キルパトリックはビュフォードの支援要請に応えることにしてウィリアムズポートでインボーデン隊への攻撃に加わった。ヘイガーズタウンのスチュアートの部隊がその陣地から、キルパトリック隊の後方と右手から圧力を掛けたのでキルパトリック隊が崩壊し、ビュフォードの後方が攻撃に曝された。ビュフォードは暗闇が訪れたときにその行動を諦めた。7月7日午後5時、ビュフォード隊は輜重隊が留まっている所から半マイル (0.8 km) 以内に近付いたが、インボーデン隊がその前進を阻んだ。 ブーンズバラの戦いは7月8日にカンバーランド道路沿いで起こった。スチュアートはファンクスタウンとウィリアムズポートの方向から5個旅団で進軍してきた。スチュアートはブーンズバラの北4.5マイル (7.2 km) のビーバークリーク橋で先ず北軍の抵抗に遭った。午前11時までに、南軍騎兵隊は幾らかぬかるんだ平原に押し出し、そこでは馬に乗ったままでの戦闘がほとんど不可能だったので、スチュアートの騎兵もキルパトリックやビュフォードの師団も馬を降りて戦うしかなかった。午後の半ばまでにキルパトリックの北軍左翼は、南軍の圧力が強まるなかで弾薬を切らして崩壊した。しかし、スチュアート隊の進軍は午後7時頃に北軍の歩兵隊が到着した時点で止まり、スチュアート隊は北のファンクスタウンに引き上げた。 スチュアート隊がファンクスタウンにいるという強い存在感のために北軍のウィリアムズポートに向けた進軍の脅威となり、もし北軍がブーンズバラから西に動いた場合にはその右翼と後方に大きな危険性を帯びる恐れがあった。ビュフォード師団は7月10日に国道を通って慎重にファンクスタウンに接近し、スチュアートの三日月形をした3マイル (5 km) におよぶ前線に遭遇し、第二次ファンクスタウンの戦いが始まった(第一次は7月7日のビュフォード第6アメリカ騎兵隊とグランブル・ジョーンズの第7バージニア騎兵隊の間で行われた小戦闘だった)。北軍トマス・C・デビン大佐の旅団が馬を降りて午前8時頃に攻撃を掛けた。午後半ばまでにビュフォードの騎兵隊は弾薬を使い果たしほとんど前進できていなかったが、ルイス・A・グラント大佐の第1バーモント歩兵旅団が到着して、ジョージ・T・アンダーソン准将の南軍旅団と衝突した(ゲティスバーグでアンダーソンが負傷した後、ウィリアム・W・ホワイト大佐が指揮していた)。これはゲティスバーグの後では初めて歩兵隊同士の戦闘となった。夕刻までに、ビュフォード隊は北軍の第1、第6および第11軍団が集結している南のビーバークリーク方面に撤退を始めた。 ビュフォードとキルパトリックはブーンズバラ周辺の前進した陣地を保ち、ポトマック軍の到着を待った。フレンチの部隊がハーパーズ・フェリーで鉄道橋を破壊し、1個旅団がメリーランド高地を占拠することで、南軍がサウス山の南端から側面を衝き、南西からフレデリックを脅かすことを防いだ。
※この「ウィリアムズポートへの追跡」の解説は、「ゲティスバーグからの撤退」の解説の一部です。
「ウィリアムズポートへの追跡」を含む「ゲティスバーグからの撤退」の記事については、「ゲティスバーグからの撤退」の概要を参照ください。
- ウィリアムズポートへの追跡のページへのリンク