ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング時代(1977年 - 2020年)
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「フランク・ウィリアムズ」の記事における「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング時代(1977年 - 2020年)」の解説
離脱後、英国オックスフォードシャー州ディドコットにあった空の絨毯倉庫を買い取り、パトリック・ヘッドと共同で「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を新たに設立。F1参戦を再開し、1979年に初勝利。翌1980年には初のコンストラクターズ・タイトルを獲得し、翌年も連覇を果たした。 1986年3月8日の午後、ウィリアムズはフランスのポール・リカール・サーキットでのテストを終えレンタカーのフォード・シエラをニース空港へと運転していたが、サーキットから10kmほど離れた村の近くでコントロールを失って道路から飛び出し、車は横転。ウィリアムズは天井にぶつかって意識不明となり脊椎損傷(第6・第7脊椎間骨折)の重傷を負い、下半身麻痺となりそれ以降車椅子での生活を余儀なくされた(助手席に同乗していたウィリアムズF1広報担当のピーター・ウインザーは裂傷のみでとどまった)。 1994年5月、ウィリアムズ・チームから出走していたアイルトン・セナがイモラで事故死したことを受けて、ウィリアムズはイタリアの法律によって殺人罪で起訴された。しかし数年後に、事故によってこのような起訴が行われるならば、イタリア国内ではレースを行わないとの発言を他の参加チームが行なったこともあり無罪となった。 「アイルトン・セナの死#イタリア検察当局による訴追」を参照 2012年4月1日、ウィリアムズチームの取締役から退く。ただし引き続きチーム代表は務める。翌2013年3月に娘のクレアを副代表へ昇格させた。 2016年9月、イタリアGPが行われたモンツァで肺炎にかかり入院、クレアが付き添いで看病に当たった。ゆっくりとした回復だったが、同年10月31日に退院している。 そして2020年夏、経営不振などの理由からチームの売却が決定し、同9月初頭付で40年以上務めた代表を正式に退任。ウィリアムズ家はF1界から離脱した。1969年の初参戦から50年、最も長くF1の運営に携わった存在であった。
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