ウィリアムズ加入とF1デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:56 UTC 版)
「デイモン・ヒル」の記事における「ウィリアムズ加入とF1デビュー」の解説
1991年、F1の名門チームウィリアムズにテストドライバーとして起用された。これは前任者のマーク・ブランデルがブラバムのレギュラーシートを得たため、ウィリアムズから離れるという話を小耳に挟んだヒルが、1990年のクリスマスにダメもとでテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドに電話をかけて問い合わせたのがきっかけであり、エディ・アーバイン、アンドリュー・ギルバート=スコット、ペリー・マッカーシー、デビッド・ブラバム、ジュリアン・ベイリーなどの候補者の中からヒルが抜擢された。 ウィリアムズでのテスト走行をこなしつつ、1992年スペインGPでジョバンナ・アマティに替わりかつて父グラハムも所属したブラバムからF1デビューを果たした。しかしブラバムは既に深刻な資金難からチームの存続が危ぶまれており、マシンも前年度の小改良に留まるなど競争力に欠け、多くのレースで予選落ちを重ねた。母国イギリスGPで初めて予選を通過し、決勝レースに出走(記録上のF1デビュー)し最下位ながらも完走した。その後ハンガリーGPでも予選通過、最下位で完走を果たした。そのハンガリーGPをもってブラバムは活動を停止し、これ以降ヒルにレース出場の機会は訪れずに終わった。 1993年、前年にチャンピオンを獲得したナイジェル・マンセルとチームとの交渉が決裂し、リカルド・パトレーゼもチーム体制に不満を抱き、両者揃ってウィリアムズを離脱する。チームは1992年休養中の身であったアラン・プロストを招聘する一方、ヒルをテストドライバーから昇格させた。序盤は経験不足を露呈する場面も見られたが、3度のチャンピオンを相手に次第に存在感を見せるようになる。プロストの地元フランスGPで初ポールポジションを獲得し、決勝ではプロストを猛追する場面もあったがチームオーダーにより2位キープ。続く母国イギリスGPにおいて予選ではプロストに敗れるもスタートで首位に躍り出てトラブルでリタイアするまでは快走。ドイツGPでも残り3周でタイヤバーストで涙を呑んだ。しかし第11戦ハンガリーGPでは2位以下を1分以上引き離し、F1参戦19戦目(決勝レース出場は13戦目)にして初優勝を達成した。これを皮切りにベルギーGP、イタリアGPと3連勝し、この時点ではチャンピオン獲得の可能性も残っていた。ポルトガルGPでもポールポジションを獲得したが、フォーメーションラップにスタートできず最後尾にまわり好機を逸した。結局年間ランキングはプロスト、セナに続く3位で終えた。
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