ウィリアムズ時代・引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:25 UTC 版)
「アラン・プロスト」の記事における「ウィリアムズ時代・引退」の解説
1993年 前年に圧倒的なマシン性能差を見せつけたチームと、3度のチャンピオンという組み合わせが誕生。だが開幕前の予想とは裏腹にプロストにとって決して楽な展開にはならなかった。 シーズン前半戦はウェットレースが連続したこともあり、雨のレースを得意とするマクラーレンのセナに活躍を許す。復帰第1戦となる開幕戦南アフリカGPこそ幸先良く勝利するが、続く第2戦ブラジルGPではトップ走行中のレース中盤、突然のスコールに対してチームとの無線連絡が錯綜してタイヤ交換のタイミングを逸した挙げ句にアクアプレーン現象でコントロールを失いクラッシュしてリタイアに終わる。更に第3戦ヨーロッパGPでは雨が降ったり止んだりのコンディションに翻弄されて7度のピットインを繰り返してセナに惨敗(結果は3位)。第6戦モナコGPではポールポジションを獲得するも、スタートでフライングと判定され、ペナルティストップを命じられた際にエンジンをストールさせて大きくタイムロス、2周遅れの最下位からファステストラップを記録しながら追い上げたものの、1周遅れの4位に終わる(プロスト自身は1993年のベストレースを「モナコGP」と発言している)。その後は第7戦カナダGPで優勝してポイントリーダーに返り咲くと、第10戦ドイツGPにかけて自己最多の4連勝を記録、ドイツGPでは通算51勝目を挙げたが、結果的にこれが現役最後の勝利となる。 しかし中盤戦以降、フル参戦初年であったチームメイトのデイモン・ヒルが経験を積むと共に次第にプロストに対して牙を剥き出しにし始める。プロストの地元である第8戦フランスGPで自身初のポールポジションを獲得したのを皮切りに、第11戦ハンガリーGPから第13戦イタリアGPまで3連勝を飾るなど、終盤戦までタイトル争いがもつれることになった。チャンピオン決定目前でエンジンブローに終わったイタリアGP後に手記したプロスト自身のコラムには「デイモンの存在が真剣に僕の心を掻きむしるんだ」とある。 プロストの完全な独走とはならなかった要因としては、初めて経験するアクティブサスペンションの挙動に慣れるのに時間を要したことや、ライバルチームもハイテク装置を装備してウィリアムズの優位性が縮小したこと、ウィリアムズ・FW15Cのクラッチの扱いに手こずり何度かエンジンストールを演じて大幅に順位を落とした事が数度あったこと、ペナルティやトラブルでポイントを失ったことなどがある。 第14戦ポルトガルGPを迎え、プロストは「1年間慎重に考慮してきた結果」として当季限りでの現役引退を表明した。後のインタビューではシーズン前に起きたFISAのスーパーライセンス発給拒否騒動や、不可解なペナルティなどで精神的ストレスが溜まっていた事をほのめかし、「あらゆることに嫌気がさして疲れてしまった」と語った。また、ロードレース世界選手権 (WGP) チャンピオンであるウェイン・レイニーが9月5日の決勝レース中事故で半身不随となったことが、自身の身体的に良い状態で引退したいという気持ちにつながったとも語る。本来はチャンピオン獲得後に発表する意向だったが、翌季のウィリアムズ入りが内定しているセナが先走って情報を漏らしたため、レース前に記者会見を行う形となった。 ポルトガルGPでは2位に入賞し、4回目の世界チャンピオンの座を獲得した。この時点ではファンジオの5回に次ぐ歴代2位の記録だった。チェッカーを受けた後、コース上にやって来たファンから手渡されたフランス国旗を掲げて走行した。 その後の第15戦日本GPと最終戦オーストラリアGPでは共にセナ優勝、プロスト2位で終わった。最終戦オーストラリアGPでの表彰台ではデニスの仲介でセナと握手をしてみせた。この表彰式直前、パルクフェルメ内ではデニスを含めた3人で握手をしていた。 同年シーズンオフにはセナやヒル、そのほかアンドレア・デ・チェザリス、フィリップ・アリオー、ジョニー・ハーバートらと共にパリにてカート大会に参加、これが名実共に最後の「セナプロ対決」となった。
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