ウィリアムズ時代
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「エイドリアン・ニューウェイ」の記事における「ウィリアムズ時代」の解説
前年の1989年からニューウェイの引き抜きを画策していたウィリアムズは、ニューウェイが解雇されたと聞くやすぐに契約を結びチーフデザイナーとして招聘。テクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドが駆動系やサスペンションを担当し、ニューウェイがシャシーや空力を担当するという共同開発体制がスタートした。ニューウェイはベテランデザイナーの元で多くを学び、両者の個性が上手く噛み合うことで、ウィリアムズのマシンは戦闘力を高めた。 1991年、FW14で新たに投入したセミオートマチックトランスミッションにトラブルが多発し、シーズン序盤はマクラーレンMP4/6のアイルトン・セナが4連勝を上げるなど劣勢であった。中盤から信頼性・戦闘力が共に向上したことによりナイジェル・マンセルが追い上げ、終盤までタイトル争いはもつれたが、序盤の出遅れが響く形になった。 1992年に投入したFW14Bは、FW14にアクティブサスペンション(商標登録上「リアクティブ・サスペンション」と呼ばれた)とトラクションコントロールシステムを搭載した、マイナーチェンジのマシンであったが、車高を任意の状態で維持することが可能となった。全16戦中10勝、ポールポジションを15回獲得し、マンセルは初のワールドチャンピオンを獲得し、ウィリアムズは1987年以来のコンストラクターズタイトルを手にした。ニューウェイが手掛けたマシンがタイトルを獲得したのもこの年が初である。1993年にはFW15Cを駆るアラン・プロストとデイモン・ヒルによって2度目の両タイトルを得た。 1994年、FW16は前年まで最大の武器であったアクティブサスなどハイテク装備がレギュレーションで禁止された上に、リアサスペンションの設計が裏目に出て、再び空力的な不安定さを抱えるようになった。新加入したセナは第3戦サンマリノGPで事故死し、事故を知ったニューウェイはピットで号泣した。イタリア検察当局はセナ車のステアリングコラムの改造が事故原因として、ヘッドとニューウェイを過失致死罪の疑いで追訴し、ニューウェイは2005年に無罪が確定するまで長く裁判を続けることになった(アイルトン・セナの死を参照)。 ウィリアムズは3年連続のコンストラクターズタイトルを獲得したが、1994年のドライバーズタイトルはベネトンのミハエル・シューマッハにさらわれた。1995年のFW17では、これまで真似してこなかったベネトン風のハイノーズを初めて採用したが、レース中のピット戦略の拙さもあり、ベネトンにダブルタイトルを奪われた。 1996年はヒルのレースエンジニアも担当し、ヒルのチャンピオン獲得をサポートした。しかし、来期のFW19の設計を終えたあと、シーズン終了後の11月8日、ニューウェイは「ウィリアムズは契約不履行している」と主張し、出社を止めた(実質的なガーデニング休暇)。これに対して、ウィリアムズは高等法院に申し立て、裁判闘争になる。この頃、すでにマクラーレンと契約を結んだという話もあるが、ともあれニューウェイがいつからマクラーレンで働くことが出来るか、この時点では不明だった。ヘッドは「裁判へと向かっているものの、その前に我々とマクラーレンとの間で、何らかの話し合いが行なわれる可能性がある」と語っている。 離脱の理由については、「年俸$2,000,000の提示とテクニカル・ディレクターとして仕事ができること」という報道もあったが、後年のインタビューでは、チーム首脳のフランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドがドライバー人事に関する約束を守らなかったことを挙げている。1992年にチャンピオンを獲得したマンセルがチームを去り、プロストが加入した件で彼らと口論し、以降はドライバーの選択に関して自分の意見を取り入れることを条件に契約を延長していた。しかし、1996年のドライバー選択でも、テスト走行の結果で見切るはずだったジャック・ヴィルヌーヴを起用し、さらに、個人的に親しかったヒルを放出して1997年はハインツ=ハラルド・フレンツェンを獲得すると事後報告されたため、フランクとヘッドの個人商店的なチームにはもう留まらないことを選択した。そんな時期にメルセデスエンジンの開発を担当するイルモアの代表者マリオ・イリエン(マーチ時代の友人)から、メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの加入を誘われた、と語っている 後年、フランク・ウィリアムズは離脱の原因として、ニューウェイがチームの株式保有を望んだことについて意見の不一致があったと語り、結果的には自分のミスだったと認めている。ヘッドはニューウェイがロン・デニスと交渉していることを示唆する書類を偶然目にし、その交渉内容はチームが応じられない内容であることが判明。それで半ば諦めたと語っている。 ウイリアムズ時代にニューウェイが手掛けたマシンは通算51勝を挙げた。
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ウィリアムズ時代(2013年 - 2016年)
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「パット・シモンズ」の記事における「ウィリアムズ時代(2013年 - 2016年)」の解説
マルシャへの正式就任から数か月後、シモンズはチームとの契約を解消し、ウィリアムズF1の技術部門を指導するチーフテクニカルオフィサーに就任することになった。同年シーズン終了後には3年契約を交わし、翌2014年からのチーム再浮上に貢献したが、契約が満了する2016年をもって離脱することになった。
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ウィリアムズ時代
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「アイルトン・セナ」の記事における「ウィリアムズ時代」の解説
1994年 6年間在籍したマクラーレンを離れ、かねてから望んでいたウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たす。マスコミなどはセナがシーズンを圧倒するのではないかと予想する者までいた。 しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテクがこの年のルール変更により禁止され、新車FW16は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常に神経質なマシンに仕上がっていた。テストにおいても最速ではあったが、あの圧倒的な前年までの速さが消えていた。 特にアクティブサスペンションはニューウェイの作りだすマシンの空力的に神経質な部分を補っていたため、その禁止はウィリアムズにとって大きな打撃となった。空力にも手を加えられていたが、低速コーナーではベネトンのマシンが優勢で、1994年第3戦サンマリノGP前にはセナはベルガーに対して「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。FW16は空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない」と漏らしている。 開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイア。第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタートで出遅れた上にハッキネンとニコラ・ラリーニに追突されてリタイア。開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。
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ウィリアムズ時代
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「ジョージ・ラッセル (レーシングドライバー)」の記事における「ウィリアムズ時代」の解説
2019年 チームメイトはリザーブ兼開発ドライバーから昇格し2010年以来9年ぶりのF1復帰を果たすこととなったロバート・クビサ。 ウィリアムズのマシンの戦闘力不足により他チームと争えるまでには至っていないが、第12戦でマシンの能力的には予選Q1敗退が常態化していた中、Q2進出まであと一歩まで迫り、決勝でもレーシング・ポイントのストロールとアルファロメオのジョヴィナッツィを抑えきり16位完走。他にも母国レースのイギリスGPでは14位完走。ブラジルGPでは12位でフィニッシュしたりしている。また、予選ではクビサに全勝。決勝もマシントラブルに遭遇していないこともあり、開幕戦から完走記録を伸ばしていたため、マックス・チルトン以来、2人目となる「デビューシーズン全戦完走」の達成も見えていたが、第15戦にロマン・グロージャン側が原因の接触によりリタイア。また、クビサが繰り上がりという形ではあるが入賞したため、この年は20人中唯一のノーポイントドライバーとなった。第4戦アゼルバイジャンGPでは、FP1でコース上のマンホールの蓋が浮き、フロアを直撃している。 2020年 チームメイトは前年リザーブドライバーを務めていたニコラス・ラティフィとなる。 2019新型コロナウイルスの世界的流行の影響により、F1は休止状態となった。その関係でF1バーチャルGPが行なわれ、参戦。8戦中4連勝という形で4勝を挙げ、シムマイスターの称号を手にした。 第2戦はキャリア初の予選Q2進出を果たし、12番手を記録。第9戦トスカーナGPでは序盤に7台がリタイアとなる波乱の展開となり一時9番手を走行したが、他車のクラッシュで赤旗が出たことで再スタート時に順位を落とし11位に終わった。 第15戦までの間、最高位の関係からランキングではラティフィに遅れをとっていたものの、予選成績では勝利し続ける結果を残していた。12月1日、メルセデスから所属するルイス・ハミルトンが決勝翌日となる11月30日に体調不良を感じたこともあり、追加で新型コロナウイルス感染症の検査を受けた結果、陽性反応が確認されたことが発表され、同時にその場合の規定に従いハミルトンの第16戦の欠場が決定。メルセデスはハミルトンの代役の手配を検討しだしたが、メディアはリザーブドライバーのストフェル・バンドーンよりもラッセルが最有力候補として浮上していると報道。12月2日になり、メルセデスはハミルトンの代役としてラッセルの起用を発表。また、それに伴い空くウィリアムズのシートには同チーム所属のリザーブドライバー、ジャック・エイトケンが起用されることとなった。 第16戦サヒールGPでは、メルセデスからの出走という形ではあるが、キャリア初の予選Q3進出からの2番手を獲得。決勝も一時首位に浮上するものの、62周目にセーフティーカーが入ったタイミングでピットインした際に、無線の問題で誤ってボッタスのタイヤを履かされるミスが発生し再ピットインを余儀なくされ5位に転落。その後追い上げを見せて2位にまで浮上するが後輪にスローパンクチャーが発生し再交換、最終的に9位フィニッシュ。自身初ポイントを獲得しファステストラップも記録した。 2021年 ウィリアムズ3年目。チームメイトの変更はなし。 第9戦オーストリアGPで、個人としては2回目、ウィリアムズ所属としては初の予選Q3進出を果たし、9番手を獲得(前のマシンのペナルティによる順位変動により8番手スタート)。チームに2018年イタリアグランプリ以来の予選Q3進出の記録をもたらした。決勝では10位入賞も目前まで迫ったが、タイヤが限界を迎え、11位完走に終わった。その後、第11戦ハンガリーGPでは、今季初の予選Q1落ち(16番手)となるが、決勝はスタート直後の多重クラッシュとなり、クラッシュの後処理のため、赤旗中断となるが、その過程で入賞圏内へ浮上。レース再開後も入賞圏内を維持し続け、9位でチェッカーを受け、ウィリアムズ所属での初入賞を記録した(前の順位のマシンが失格処分となったことによる順位変動により記録上は8位入賞となる)。 第12戦ベルギーGPではウエットコンディション下で行われた予選において今季3回目となるQ3進出を果たし、最終的に2番手を獲得。決勝は荒天で通常のレース走行は行われなかったものの、ハーフポイントレースの要件を満たした形かつほぼ予選時の順位のまま終了。その結果、自身の2番手がレース結果の2位となり、キャリア初の表彰台を獲得した。 前年のメルセデスでの代役出走で一定の活躍を見せた事、メルセデスとの育成契約下である事、ラッセルとウィリアムズの契約は今年で終了する事から、2022年のメルセデスのドライバーとして起用されるか否かで注目される状況となっていた。その過程で様々なうわさが飛び交ったが、最終的にはメルセデス所属中のバルテリ・ボッタスがアルファロメオとの複数年契約の締結の発表後となる9月7日、メルセデスからラッセルとの複数年契約の締結と同時に2022年のドライバーとして起用することが発表された。
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ウィリアムズ時代
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「ハインツ=ハラルド・フレンツェン」の記事における「ウィリアムズ時代」の解説
1997年、フレンツェンは前年のワールドチャンピオンであるデイモン・ヒルに代わりウィリアムズに加入した。第4戦サンマリノGPでF1初優勝、第5戦モナコGPで初のポールポジションを獲得し、終盤には5戦連続表彰台フィニッシュを果たす活躍を見せた。最終戦終了後のシューマッハの成績除外によりドライバーズランキング2位となったが、チームメイトのジャック・ヴィルヌーブがワールドチャンピオンを獲得していた。そのため、1勝も含めた表彰台7回を獲得してコンストラクターズタイトル獲得に貢献したものの、同じマシンを駆りF1キャリアもヴィルヌーブより持っていたフレンツェンが見劣りしてしまったのも事実であった。ただ、トラブルが多発した面があり、実際、開幕戦ではピット作業ミスで順位を落とし、巻き返して2位まで浮上したにもかかわらず、終盤にブレーキトラブルが発生して表彰台を逃すなど、自身のミスもあったが自身以外の要因に左右された面もあった(#人物像)。 翌1998年、チームはルノーのワークス供給を失ったことやヒル放出の経緯などチームに不満を持っていたエイドリアン・ニューウェイがチームを去ってマクラーレンへ加入するなど、チーム内は混乱していた。また、ウィリアムズのマシンは、この年からの新レギュレーションの対応に出遅れ、エンジンも型落ちのルノーエンジンのカスタマー供給であり、前年のような戦闘力が失われたマシンとなっていた。そのため、チームとしては1988年以来となる年間未勝利に終わり、フレンツェン・ヴィルヌーヴ共々成績が下降し、精彩を欠いたシーズンとなった。この状況に理由は違えど二人とも同年限りでウィリアムズを去る決断をし、自身は無限ホンダV10エンジンを搭載するジョーダンへ移籍する。
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ウィリアムズ時代
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2001年、フランク・ウイリアムズに見込まれ、シニア・オペレーションエンジニアとしてウィリアムズチームに引き抜かれ、同チームのレースとテストの管理を統括する責任者となる。 2004年5月、同チームにおいて長年にわたってテクニカルディレクターの地位にあったパトリック・ヘッドがその座を退いたため、マイケルはウィリアムズのテクニカルディレクターを引き継ぐこととなり、33歳で名門ウィリアムズチームの技術部門のトップに立った。開発部門からレース戦略に至るまでの全てを統括することとなったが、リソーセスの分散による弊害が顕著となりチームの成績が低迷したことから、2007年にはルノーでフェルナンド・アロンソのレースエンジニアを務めていたロッド・ネルソンを引き抜いてチーフ・オペレーション・エンジニアの職につけ、レースチームにおける負担を軽減するとともに、より開発部門の職務に集中できる体制が構築された。 しかし、その後もチームの成績低迷は続き、2011年5月に同年末をもってテクニカルディレクターを辞任することが発表された。
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ウィリアムズ時代(第1期)
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「ナイジェル・マンセル」の記事における「ウィリアムズ時代(第1期)」の解説
1985年にはホンダエンジンを搭載するウィリアムズへ移籍し、ケケ・ロズベルグのチームメイトとなる。第7戦フランスグランプリ予選ではタイヤがバーストし、ホイールが頭部を直撃して失神。地元イギリスで行われた第14戦ヨーロッパグランプリで悲願の初優勝を果たした。F1出走72戦目での初優勝は当時の最遅記録となった。続く第15戦南アフリカグランプリでも優勝し、チャンピオン候補として急激に頭角を現した。 1986年にはウィリアムズに2度のチャンピオン経験者であるネルソン・ピケが加入。しかしマンセルとはそりが合わず、チームメイトというよりもライバルとして意識しあう。マンセルはピケ、マクラーレンのアラン・プロストと三つ巴のチャンピオン争いを展開。最多の5勝を挙げ、最終戦オーストラリアグランプリを迎えた時点で2位に6ポイントの差をつけてランキングトップに位置していた。決勝では自力で王座を決められる3位をキープしていたが、レース終盤に左リアタイヤが突然バーストしてリタイア。優勝したプロストにポイントで逆転され、ドライバーズランキングは2位に終わった。リアタイヤがバーストした時点で287km/hの速度が出ていたが、マンセルはクラッシュすることなくマシンを停止させる離れ技を演じた。この際マンセルは、三輪になったマシンを見事にコントロールし、エスケープロードに安全に停止させる危機回避力を発揮した。 1987年は、母国での第7戦イギリスグランプリで、地元観客の大歓声を受けてタイヤ無交換作戦で逃げるピケをタイヤ交換1回にてニュータイヤのグリップを活かし怒涛の追い上げでオーバーテイク、30秒近い差を逆転し優勝を果たした。この年は最多の6勝8ポールポジション(全戦フロントロウ)を記録しながらリタイアも多く、第4戦モナコグランプリでは排気管が割れ、第9戦ハンガリーグランプリではホイールナットが外れて優勝を逃した。チャンピオン争いでは確実にポイントを重ねるピケに先行され、逆転の可能性を掛けて鈴鹿サーキットで行われた第15戦日本グランプリに挑むが、予選1日目にS字コーナーで大クラッシュ。背中を痛めてこのレースと最終戦を欠場することとなり、2年連続で王座を逃した。 1988年はリカルド・パトレーゼをチームメイトに迎え、ナンバーワンドライバーの地位を得る。ホンダがマクラーレンへのエンジン供給に切り換えたため、ウィリアムズはノンターボのジャッドエンジンを搭載するが、非力で信頼性に乏しいエンジンと、熟成不足のアクティブサスペンションに苦戦を強いられた。マンセルは開幕戦ブラジルグランプリで予選2位を獲得するも、ここから7戦連続リタイア。アクティブサスペンションを外した第8戦イギリスグランプリでは、雨中の追走で2位とファステストラップを獲得。第14戦スペイングランプリではエンジンパワー差の出にくいコースで2位と気を吐くが、この年完走できたのはこの2戦のみだった。また、娘の水痘がうつり、ベルギーとイタリアの2戦を欠場した。この年は、トレードマークである口ヒゲを剃ったことでも話題となった。
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ウィリアムズ時代
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1986年 前年に戦闘力を増し、ホンダエンジン搭載後初勝利を挙げていたウィリアムズに加入。ナイジェル・マンセルをチームメイトにFW11をドライブ。この年のピケの契約金が日本円にして7億円、マンセルは1億円弱だったとされ 、契約上は完全No.1待遇のはずであった。しかし開幕前にオーナーのフランク・ウィリアムズが交通事故で下半身不随になる混乱の中、イギリスのチームであるウィリアムズ内部ではイギリス人であり前年にF1初勝利を挙げたナイジェル・マンセル派と、エンジンを供給するホンダがバックアップするピケ派に二分された。 元々ピケのウィリアムズ加入はエンジンサプライヤーのホンダが強く望んだもので、ウィリアムズ側を説得するため、ピケの年俸の一部はホンダが出していた。 ピケとマンセルは、互いの情報を一切共有しようとはしなかった上、ホテルのロビーで隣同士になっても会話なく挨拶をするだけという関係であった。この年はピケが4勝、マンセルが5勝を挙げてコンストラクターズ・チャンピオンシップでは1位を獲得したが、ドライバーズチャンピオンは最終戦オーストラリアGPでマクラーレンのプロストにさらわれた(マンセルがランキング2位、ピケは3位)。最強エンジンを有し、チャンピオン最有力チームに居ながら2人ともチャンピオンを逃した理由を問われたピケは「No.1が二人いたから」と、チーム力が分散してしまったことを挙げた。 1987年 前年同様、マンセルとのコンビでウィリアムズでの2年目を迎える。第2戦サンマリノグランプリ予選中、高速コーナー・タンブレロにて激しいクラッシュに見舞われ、レースを欠場。その後は充分な睡眠を取れないなど、クラッシュの後遺症にシーズンを通して悩まされ続けることとなる。 しかし、年間6勝も挙げながら勝つかリタイヤかという波のあったマンセルに対し、ピケは体調が万全でない中、勝てない場合には2位でのフィニッシュが7回など確実にポイントを積み重ね、優勝した第8戦ドイツグランプリ以降ランキングトップの座を維持。そして第15戦日本グランプリにて、逆転王座の可能性を残すマンセルが予選中にクラッシュ。背骨を痛めて出場不可能となり、決勝を迎えずしてピケが3度目となるワールドチャンピオンに輝いた(シーズン3勝)。この年は全16戦中入賞12回(うち表彰台11回)と、チャンピオン獲得年の中でも特に安定した成績を残している。PPは4回。ピケはシーズン終了後のインタビューで「マンセルは僕よりアグレッシブで、予選も凄く速く走ったけど(第3戦の)スパではセナと絡んで簡単に9ポイント獲るチャンスを手放した。こういう事がチャンピオンシップを大きく変えるんだ。私は堅実にゴールを重ねてタイトル争いに勝った」とその喜びを語った。 同年を最後に、チーム体制がマンセル寄りに傾き、加えて当時最強エンジンであるホンダ・V6ターボを失うことが決まっていたウィリアムズを離れ、ホンダ・ターボの供給継続が決定し、なおかつピケのNo.1待遇を保証したロータスに移籍することとなった。 チーム内への不満から移籍を決意したピケだが、「レーサーとしての今までのキャリアで、ウィリアムズほど技術的に優れたチームは無かった。この事に疑いの余地は全くない。それでも来年はロータスに行くと決めた」とチームの技術面には賛辞を送りチームを離れている。
※この「ウィリアムズ時代」の解説は、「ネルソン・ピケ」の解説の一部です。
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ウィリアムズ時代
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「リカルド・パトレーゼ」の記事における「ウィリアムズ時代」の解説
1987年 第15戦日本グランプリにて、ウィリアムズのナイジェル・マンセルが予選中にクラッシュ、この事故で背骨を痛め日本グランプリおよび最終戦オーストラリアグランプリの出場が不可能となった。最終戦はすでに翌1988年からのウィリアムズ移籍が決まっていたパトレーゼが代役として参戦し、終盤でリタイアするも、9位で完走扱いになっている。また彼にとって、ホンダエンジンを搭載したマシンで参戦した唯一のF1レースだった。その決定が急なことだったのか、ヘルメットはブラバムの物を流用したままであった。 1988年 ウィリアムズから本格参戦し、マンセルとコンビを組むこととなる。しかしこの年チームは、前年チャンピオンをもたらしたホンダのターボエンジンを失い、ジャッドのNAエンジンでの参戦となった。ターボに比べると非力なうえに信頼性も低いエンジンに手こずり、16戦中半数の8戦でリタイヤした。しかし終盤には連続入賞を記録し、表彰台に立つことは無かったものの、8ポイントを獲得した(ランキング11位)。 1989年 チームがエンジンをルノーに変更し戦闘力も向上。チームメイトはフェラーリに移籍したマンセルからベネトンから移籍してきたティエリー・ブーツェンに代わる。開幕戦ブラジルグランプリで6年ぶりのフロントローを獲得し、決勝ではスタートからトップを走行。その後マンセル、プロストに抜かれ、最終的にはオルタネーターのトラブルでリタイヤしたが、FLをマークしている。その後、第4戦メキシコグランプリからの3連続で2位を獲得、第7戦フランスグランプリでも3位に入り4連続表彰台を記録した。また第10戦ハンガリーグランプリでは、1983年第13戦イタリアグランプリ以来となるPPを獲得し、決勝でもトラブルでリタイヤするまでトップを守り続けた。 この年勝利を挙げることはなかったが、6度の表彰台(2位4回、3位2回)を含め9度の入賞を記録し、ランキングでマクラーレン勢に次ぐ3位となった。 1990年 第3戦サンマリノグランプリにおいて、予選3位から7年ぶり99戦ぶりの優勝を飾った。優勝と優勝の間がこれ程開いた例は他にない。この年のマシンは、信頼性はあったが速さに若干欠けており、表彰台はサンマリノグランプリのみとなり(チームメイトのブーツェンは2回)、計8度の入賞もランキングは7位に留まった。しかしFLをこの年の最多となる4度獲得し、予選でも2度フロントローに並んだ。 1991年 マンセルがチームに返り咲き、3年ぶりにコンビを組むこととなった。この年はパトレーゼが最も輝いたといわれ、開幕より予選でマンセルを凌ぐ速さを見せ、第5戦カナダグランプリではシーズン初のPPを獲得(決勝は3位)。続く第6戦メキシコグランプリでも体調不良ながら予選でPPを獲得すると、スタートでは出遅れ4位に落ちるも、その後はマンセルをも抜き去り優勝。自身初のポール・トゥ・ウィンを達成することとなる。 第7戦フランスグランプリでも3戦連続のPPを獲得するが、決勝ではスタート時にセミATギアボックスのトラブルが発生。1周目の1コーナーで早々とトップ集団から脱落し、その後もタイヤ交換でもたつき周回遅れになる等、良いところの無いレースとなった(5位)。このレースで優勝したマンセルの調子が上がってきたこともあり、以後は予選ではマンセルに先行されることが多くなり、決勝でもマンセルの陰に隠れがちとなった。しかしマンセルが失格となった第13戦ポルトガルグランプリでは、チームの混乱を最低限に留める、自身2度目のポール・トゥ・ウィンを達成した。 この年のPP4回、2勝はいずれも自身のシーズンベスト記録であり、またポール・トゥ・ウィンをマークしたのもこの年のみである。FLも3度獲得している。ランキングでは、チャンピオン争いを繰り広げたセナ、マンセルに次ぐ3位となった。決勝の獲得ポイントではマンセルに敗れたものの、予選成績では9勝7敗と上回っている。 1992年 開幕戦南アフリカグランプリで予選4位からスタートで2位を奪取するなど、前年スタートで順位を落とすことが多かったのに対し、度々好スタートを見せた。特に第3戦ブラジルグランプリ・第8戦フランスグランプリ・第9戦イギリスグランプリ・第10戦ドイツグランプリでは、2番グリッドからスタートでトップに立っている(イギリスグランプリ・ドイツグランプリではすぐに抜き返されている)。 しかし前年には無かったチームオーダーによって、パトレーゼの微妙な立場が垣間見えるシーンも多く見られた。フランスグランプリでは、当初はマンセルと激しいバトルを行いながら、雨天での中断を経た再スタート後に、手を挙げて先行させている。またイギリスグランプリでも、タイヤ交換のタイミングでマンセルが優先されていた。 第5戦サンマリノグランプリが開催される一週間前のテスト走行中に右リアタイヤがパンクして制御を失い、タンブレロ・コーナーの出口で大クラッシュし首を負傷。 マンセルのタイトル決定が懸かっていた第11戦ハンガリーグランプリでは、この年唯一(結果的には現役最後となる)PPを獲得。意地を見せ、決勝でも中盤までトップを独走していたが、単独スピンを喫しその後エンジントラブルによりリタイア。2位を獲ったマンセルのチャンピオン獲得を許す結果となった。また地元・第13戦イタリアグランプリでもマンセルに譲られトップを走っていたが、アクティブサスペンションのトラブルに見舞われ、5位に終わった。第15戦日本グランプリでようやくシーズン初勝利を挙げたが、最終戦オーストラリアグランプリでもトップ走行中にトラブルでリタイアした。 前年の改良型として投入していたFW14Bが予想以上の強さを見せたウィリアムズは、開幕5連勝など完全にシーズンを支配し16戦で10勝を挙げ、パトレーゼのランキングも自身最高の2位であったが、アクティブカー特有の挙動への順応に手こずったパトレーゼは1勝に留まり、6回の1-2フィニッシュでも全てパトレーゼは2位であった。予選成績でも、マンセルに2勝14敗と完敗であった。また、決勝レースでもマンセルを追撃するどころか、セナやミハエル・シューマッハの追撃を激しく受ける場面も幾度か見られた。 詳細は「ウィリアムズ・FW14#「最強マシン」の実態」を参照
※この「ウィリアムズ時代」の解説は、「リカルド・パトレーゼ」の解説の一部です。
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