「最強マシン」の実態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 01:26 UTC 版)
「ウィリアムズ・FW14」の記事における「「最強マシン」の実態」の解説
FW14とFW14Bでは、マンセルとパトレーゼの個人記録の違いが目立つ。1991年はマンセル5勝2PP、パトレーゼ2勝4PPという成績だが、パトレーゼの方が先に優勝し、3連続ポールポジションを含めて16戦中9戦でパトレーゼがマンセルを上回った。ところが、1992年はマンセルが9勝14PP、パトレーゼは1勝1PPと圧倒的な差がついた。予選では1〜2秒差という、同じマシンとは思えないギャップが開いたケースもあった。 エイドリアン・ニューウェイは「アクティブカーはナイジェルのような、クルマを信頼して振り回すアグレッシブな乗り方に合っていた」と語っている。アクティブカーは従来のパッシブサスカーの限界よりも攻め込むことができるが、その感覚の違いをドライバーが克服しなければ、その性能を完全に活かすことはできなかった。マンセルは「こんなに速いとバリアにぶつかってしまうぞ、という頭の中の"アラーム"を乗り越えることが大変だった」と語っている。一方でパトレーゼはマシンの反応を感じながらスムースに操るタイプのドライバーだったため、アクティブカーへの順応が思うようにできず、「ナイジェルのほうが僕よりも慣れるのが早かったから、とにかく自分の考えを変えなくてはいけないと思った」「ドライビングが難しいというのではなく、すべてにおいて別物だった」と語っている。パトリック・ヘッドは「普通のクルマとはロール剛性の感触が違う」と説明し、「コーナーに入る際、短い期間ではあるもののマシンは浮遊するような感じになり、その上安定していた。ナイジェルはこの短い間に、より多くのグリップがあることを掴んだ。しかしチームメイトのリカルドは、いつもよりしっかりとした感触を欲しがっていたんだ」と述べている。 また、当時F1のレースに耐えうる油圧式のパワーステアリングは存在したが、電動式は実用化されていなかった。そのため、その搭載分だけマシンの重量増となる事を嫌っていたため、FW14Bでも搭載されていなかった。そのため、高速コーナーではステアリングが非常に重くなり、上半身の筋肉が発達したマンセルに有利だった。当時ベネトンに在籍していたマーティン・ブランドルは「パトレーゼはまともにステアリングさえ操縦出来ていなかったんじゃないかな」と評している。 マンセル自身はロータス時代に初期のアクティブカーで怖い体験を経験したことから、システムに良い印象をもっていなかったが、1992年はシーズン前に減量するなど、悲願のチャンピオン獲得へ決意を持っていた。また、パトレーゼを最大のライバルと目し、アドバンテージを与えないようにしていた。レース中はチームに告げずアクティブの設定を手動調節し、フロントの車高を下げて走っていた。また、ブリーフィングでは担当エンジニアと共謀してでたらめな報告をし、ホテルに帰ってからふたりで話し合っていたという。チームのアナリストすら見破れなかったほどのマンセルの巧妙な偽装工作をニューウェイが気付いたのはシーズンの終盤であったと言う。 マンセルは記者会見でアクティブカーの操縦がいかに困難であるか伝えようとしたが、逆にマシン性能に自身が助けられていると解釈され、皮肉にも「誰が乗っても勝てる」マシンという評価を招くことになった。それに目を付けたセナや当時休養中だったアラン・プロストがウィリアムズのシート争いに加わり、セナに至っては「ノーギャラでいいから」とまで発言するほどにヒートアップ。その結果、チームの態度に不信感を募らせたマンセルとパトレーゼは揃って去ることになり、翌1993年はプロストとそれまでテストドライバーだったデイモン・ヒルの体制となった(後にヒルにも「最強マシン」乗りが故の過小評価が付きまとう事になった)。
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